カロライン・ハウ(国際関係論、地域研究、文学)
1970年代、子ども時代を過ごしたマニラのチャイナタウンでは、kalesaという名の二輪馬車をよく見かけた。学校や映画館、飲食店、診療所、店、教会、寺院への行き帰りに住民が利用した。カレッサのいとこ、karitelaと呼ばれる大型の馬車は、サントクリストやディビソリアの市場から大量の荷を運んでいた。馬は飾り付きのブリンカー(目隠し革)をつけ、パカッパカッと蹄音を立てて闊歩し、真鍮製の鈴を鳴らし、路上に糞をした。馬は人や犬、猫と同様に都市の光景におなじみのものであった。
私はkutsero(御者、スペイン語のcocheroに由来)の使う言葉から、カレッサ用語を拾い集めた。右へ曲がるときは「mano」(スペイン語で手を意味する)、左へ曲がるときは「silya」(スペイン語で椅子を意味するsillaに由来)。さらにクチェロが舌を鳴らし、手綱をシュッと引き締め、鞭を打ち(時にはピシリと打ちすえ)、音や身振りで馬に指示を伝えると、馬は駆けだし、ギャロップして角を曲がり、減速して止まるのだった。
フィリピンの言語には、馬車が主要な輸送機関であった古き時代に由来する比喩表現が今も残っている。スペイン語で「良い手」を意味する「buena mano」は、かつて馬を大事に扱う御者を意味したが、転じて今ではその日の商売の成功や幸運を呼ぶとして最初の客を意味するようになった。ほら話を指す「kuwentong kutsero」(御者物語)は、御者たちが休憩時間に雑談する光景を想起させる。
年配の人たちは驚いたときに、「Ay, kabayo!」(あっ、馬だ!)と声を上げる。「馬が死んでしまったら、牧草は何の役に立つのか?(Aanhin pa ang damo kung patay na ang kabayo?)」、「水牛への一撃、馬への鞭打ち(Hampas sa kalabaw, latay sa kabayo)」(間接的攻撃を意味する)、「馬を借りたら、その歯を見るな(Ti kabálio no bulbuloden, ti ngípenna di kitkitáen)」(借り物に難癖をつけてはいけないの意)といった諺は今も使われている。
自動車が馬車に代わり、マニラの市中で馬を見かけることは少なくなった。日常生活では必要とせず、観光客を呼び込むものになっている。とはいえ私はこのところ、馬の歴史について、また「人と馬の組み合わせ」という偉大な動物連合が、馬や人類、生物相、そして地球に及ぼす影響について文献を読み深めている。
馬の祖先は5000万年前、現在の南北アメリカ大陸を駆け回っていたが、1万年前の氷河期に絶滅した。5500年前にユーラシアのステップでウマ(Equus caballus)が家畜化されたのは、「二つの生き物の体力と知力を一体化させる『ケンタウロスの盟約』であった。人間は馬によって文字どおりの意味でも比喩的な意味でも力を強めた」[1]。
およそ50万年間、ヒト(Homo sapiens)は「馬の最も重要な捕食者」[2]であった。歴史家によれば、最初に馬に乗ったのは子どもだったようだ[3]。最も初期のズボンは乗馬用に作られていた。ギリシア人は、地下の黄泉の国は牧草地だと考えていた。馬は『リグ・ヴェーダ』に繰り返し登場する。モンゴルの聖なる標柱「オボー」の上部には馬の頭骨があしらわれている。本物の馬ではないが、中国始皇陵の兵馬俑抗には馬車馬520体、騎兵馬120体が埋葬された。
馬は食料、飲料、衣類となり、労働力、輸送手段として使われ、病原体を媒介し、戦争に駆り出され、力と地位の象徴となり、礼節を示し、郵便や荷物を届け、儀式に供され、儀式を支え、威信の表象、贈り物、商品となり、働かされ、ペットや仲間、友ともなってきた。
グレッグ・バンコフとサンドラ・スウォートは、馬は二つの意味で「作り出された」と述べている。つまり、馬は「象徴または表象的構成概念として人間が心に思い描いた」ものであると同時に、「人為的な介入によって文字どおり形態を変えられた」[4]。馬は「環境変化の仲介者」[5]でもあった。
ステップはアジアの内陸の「草地の海」と呼ばれ、その歴史的重要性と諸民族を結びつける力からして地中海に匹敵すると言われている[6]。馬はおそらく「帝国の(主要な)原動力」の一つであった[7]。
中国においては、フェルガナ(大宛)産の馬「汗血馬」(血のような汗を出すといわれた名馬[8])を手に入れて、軍馬(戎馬、文字どおりの意味では「西洋馬」[9])の質を改良することが、漢(紀元前206~220年)と唐(618~907年)の外交、軍事戦略、交易、国政の重要課題であった。デイビッド・チェイフェッツは、絹ではなく馬こそが「当時の真の戦略商品」であったと指摘している[10]。馬1頭は絹18反の値がつき、少女の奴隷より3倍も高かった[11]。唐は国家予算の少なくとも10%を馬の輸入に充てた[12]。こうした馬は高価で数も多かったことから(馬は「シルクロードにおける金額上最大の交易品」であった)[13]、シルクロードは「ホースロード」であったとも考えられる。
馬は中国の雲南から東南アジアに渡り、馬の使用、特に戦争での使用が13世紀のモンゴル侵入を機に拡大した[14]。馬は早くも3世紀にインドネシア諸島に持ち込まれ、9世紀には間違いなく存在した[15]。ポルトガルのアジア貿易では、馬はきわめて高価な商品であり、インドのゴアがインド・中東間の馬貿易の拠点になっていた[16]。
ジャワ馬は、ジャワ地域と中東の広範な商業的・文化的・宗教的接触を背景にペルシャ馬とアラブ馬の血が入り、17世紀から18世紀にかけてシャムの宮廷で珍重された[17]。馬をフィリピンに連れてきたのはスペイン人で、16世紀後半のことであった。もっとも、ミンダナオ島南部にはインドネシア産の馬がすでにいた[18]。
植民地主義と帝国主義が馬の品種の世界的な拡散と産出に重要な役割を果たした。グレッグ・バンコフが詳述しているように、フィリピン在来馬は小型化して環境と餌に適応していたが、スペイン人とアメリカ人は「その血統を更新」すべく種馬を海外から輸入した。植民地時代の人種混合にあやかって、「西洋」の雄馬と「在来種の」雌馬から生まれた子馬はメスティーソと呼ばれた[19]。増大する馬需要を満たすために中国と日本(特に南部藩)から馬を輸入した[20]。
第2次世界大戦のプロパガンダではドイツ軍の機械化が喧伝されたが、騎兵隊と東部戦線の兵站支援が主に馬頼みであったのはソ連ではなくドイツだった。2001年の時点でも、アメリカのグリーンベレー(特殊部隊)はアフガニスタンでの対タリバン戦争に馬を使っていた。
人間と動物の相互作用という枠組みでとらえることで人間の歴史と、私たちが軽視しがちな動物の歴史を新たな視点で見ることができる。
私の場合、父が中国の泉州で育てた雌馬のことを語る口ぶりに、こうした相互作用で生まれる情緒的つながりを確かに感じる。その馬は祖父が1946年に100ドルもの大金で手に入れたものだった。父は8歳のとき、馬の世話を任された。馬は栗色で、鼻口部に白斑があったので虎嘴偏紅と名づけられた。
虎嘴偏紅は強くて持久力があると評判になり、家の敷地内に居所を与えられた。父は学校から帰ると馬に乗り、草を食べさせた。父と馬はどの道を行っても(親類を訪ねて遠出することもあった)、必ず無事に戻ってこられた。
父は14歳でこの馬と別れた。香港に移り、その後フィリピンに移ったからだ。あれから70年が過ぎたが、父はその馬のことを忘れてはいないし、馬の乗り方も忘れていない。
注
[1] Timothy Winegard, The Horse: A Galloping History of Humanity (Melbourne: The Text Publishing Company, 2024), p. 2.
[2] William T. Taylor, Hoof Beats: How Horses Shaped Human History (Oakland: University of California Press, 2024), p. 78.
[3] David Chaffetz, Raiders, Rulers, and Traders: The Horse and the Rise of Empires (New York: W.W. Norton and Company, 2024), p. 11.
[4] Greg Bankoff and Sandra Swart, “Breeds of Empire and the ‘Invention’ of the Horse,” Breeds of Empire: The ‘Invention’ of the Horse in Southeast Asia and Southern Africa 1500–1950 (Copenhagen: NIAS Press, 2007), p. 10.
[5] Greg Bankoff, “Bestia Incognita: The Horse and Its History in the Philippines 1880–1930,” Anthrozoös (March 2004), p. 4.
[6] Chaffetz 2024, p. 17.
[7] Bankoff and Swart 2007, p. 51.
[8] 出血の原因は、馬に寄生する多乳頭糸状虫にあった。
[9] Chaffetz 2024, p. 84.
[10] Chaffetz 2024, p. 120.
[11] Chaffetz 2024, p. 132.
[12] Chaffetz 2024, p. 120.
[13] Chaffetz 2024, p. 120.
[14] Bankoff and Swart 2007, p. 11.
[15] Peter Boomgard, “Horse Breeding, Long-Distance Trading, and Royal Courts in Indonesian History, 1500–1900,” in Bankoff and Swart 2007, p. 35.
[16] Ralph Kauz, “Horse Exports from the Persian Gulf Until the Arrival of the Portuguese,” Pferde in Asien: Geschichte, Handel und Kultur [Horses in Asia: History, Trade and Culture], edited by Bert G. Fragner, Ralph Kauz, Roderich Ptok, Angela Schottenhammel (Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, 2009), pp. 129–36.
[17] Dhiravat na Pombejra, “Javanese Horses for the Court of Ayutthaya,” in Bankoff and Swart 2007, pp. 65–81.
[18] Bankoff and Swart 2007, p. 13.
[19] Bankoff 2004, p. 13.
[20] Bankoff 2004, p. 9.
(イラスト:Atelier Epocha(アトリエ エポカ))