開かれた対話の土台としての歴史研究を目指して – CSEAS Newsletter

開かれた対話の土台としての歴史研究を目指して

Newsletter No.83 2026-01-14

菊池泰平さんインタビュー

略歴
菊池泰平氏は京都大学東南アジア地域研究研究所機関研究員。2024年に大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程を単位取得満期退学。主な論文に、「ミャンマーにおける中央集権と地方分権の対立:1960年代初頭のフェデラルムーブメントはいかに『分離主義運動』とされたのか」(『アジア太平洋論叢』26巻1号、2024年)、「ミャンマー公定史におけるパンロン民族団結史像の形成:シャン政治家トゥンミンの著作はいかに利用されたか」(『東南アジア研究』59巻2号、2022年)などがある。

単なる語学学習から民族の関係史という切実な問いへ。言葉の学びを通じた様々な人々との出会いにより導かれるようにミャンマー史研究者への道を進んでいった菊池泰平研究員が、歴史研究することの魅力を余すところなく伝えます。

──ご研究について教えてください。

私の専門はミャンマーの近現代史です。特に、国家の中心である平野部のビルマ族と、東部の山間盆地に暮らすシャン族との関係史を研究しています。ミャンマーでは、独立前から現在に至るまで「連邦制」が国家統合のキーワードとして掲げられてきました。しかし実態は、まさに同床異夢でした。中央集権的な統合を目指すビルマ族の政治家たち、伝統的な権威を守ろうとするシャンの領主たち、そして新しい時代を模索するシャンの平民活動家たち。それぞれが全く異なる「くに」のあり方を夢見ながら、同じ「連邦制」という言葉を使っていたのです。

私の研究の目的は、ビルマ族中心の歴史記述の中で埋もれ、忘れ去られてしまった「シャン族側が描いた統合の夢」を掘り起こすことです。当時のシャン族にとって、連邦制とは単なる妥協ではありませんでした。彼らは、多数派であるビルマ族という存在を「合わせ鏡」のようにして、自分たち自身のあり方を必死に模索していました。そこには二つの悲願がありました。一つは、バラバラだったシャン諸国を一つにまとめる「内部の統合」。もう一つは、その統合されたシャンとして、対等な立場でビルマ族と手を結ぶ「外部との統合」です。

1922年の連合シャン諸州の成立から、1947年のパンロン協定締結に至る過程で、彼らがいかにしてビルマ側との関係に悩み、自らの生存戦略を練り上げていったのか。そして、そこから生まれた切実な連邦構想がなぜ挫折し、現在まで続く対立へとつながってしまったのか。私が目指しているのは、ミャンマーという国において語られる「諸民族の団結」という言葉が、どのような文脈で語られ、また利用されてきたのか、その錯綜する言説を丁寧に解きほぐすことです。理想と現実、中央と地方の思惑が複雑に絡み合った歴史の糸を一本一本ほどいていく作業を通じて、膠着した現状の先に、どのような共存の未来を見ることができるのか。過去の記録の中にその手がかりを模索し続けることが、私の研究の核心です。

──研究の道に進むきっかけや、今のご研究に至った経緯について教えてください。

すべての始まりは、2012年に外国語学部のビルマ語専攻を選んでしまったこと、これに尽きます。当時は前年からの民政移管を受け、ミャンマーが「アジア最後のフロンティア」として日本でも脚光を浴びていた時期で、その熱気に当てられるように足を踏み入れました。

単なる語学学習が切実な「問い」へと変わったのには、明確な契機があります。学部生時代にデイヴィッド・クリスタルの『地球語としての英語[1]』を読んだこと、そしてベネディクト・アンダーソンの『言葉と権力[2]』などに触れたことです。それらは、言語というものが中立的なコミュニケーションツールではなく、政治的な秩序や社会のヒエラルキーを形成する「権力」そのものであるという事実を、私に突きつけました。

この視座をミャンマーに向けた時、私はある居心地の悪さを覚えるようになりました。私が一生懸命学んでいる標準ビルマ語は、シャン州のような周縁地域から見れば、圧倒的な「中央」の論理を体現する言葉でもあったからです。かつて独立時に語られた「連邦」や「諸民族の団結」という美しいスローガンも、マジョリティであるビルマ族の言葉(論理)で構築されている限り、それは彼らにとって都合の良い統合の物語に過ぎないのではないか。そう考えた時、語学学習の枠を超え、歴史の深層まで潜る必要性を痛感しました。「強者」の言語であるビルマ語を武器にしつつも、その言葉によって周辺化されてきたシャン族の側から、あえてこの国の形成過程を問い直したい。このアンビバレントな動機こそが、歴史研究へと私を突き動かしています。

──研究で出会った印象的なひと、もの、場所について、エピソードを教えてください。

研究生活の中で、対照的な二つの出会いが強く心に残っています。

一つは、ヤンゴンでの留学時、下宿先を紹介してくれた女性(Mさん)です。Mさんは国境を軽々と越えるネットワークを持っていました。Mさんの父方は福建省出身の華人、母方はビルマ族であり、さらに母方の親戚にあたるカレン族の人々が、彼女が持つ太いパイプにいわば「乗っかる」形で移動し、生活の場を広げていました。普段は海外で暮らす彼女がヤンゴンに戻ると、その家はさながら祝祭のような賑わいを見せました。どこからともなく大勢の「おばちゃん」たちが集まり、ちょっとしたお土産や、お互いの近況、そして生活の知恵が飛び交うのです。

下宿先で集まる「おばちゃん」たち

既存の民族や境界の枠を軽やかに越え、異なるルーツを持つ人々が柔軟につながり合うその光景は、決して公的な記録には残らないであろう、人々のたくましい生存戦略そのものでした。あのリビングや台所に満ちていた賑わい、そして複雑に絡み合いながらも助け合う女性たちの姿こそが、私がミャンマーという社会を見つめる際の原点となっています。

もう一つは、大学院修士課程時代に、あるミャンマー人の先生と交わした議論の記憶です。当時、週に一度、一対一で文献を読んで議論する機会がありました。いつも先生の「バーマソーピョーバー(何でもいいから話してみて)」から始まるその時間では、学業のことはもちろん、プライベートな話や政治・経済のことまで、本当に色々な話をしましたが、ある時そこでロヒンギャ問題をめぐって意見が真っ向から対立したことがありました。当時すでにミャンマー西部のラカイン州情勢は悪化しており、国内では彼らを「ベンガリー(バングラデシュからの不法移民)」と呼ぶ風潮が強まっていました。そのお世話になっていた先生もまた、「彼らは政府が定める135の土着民族に含まれていない。ゆえに国民ではありえず、ロヒンギャという名乗りも認めない」と頑なでした。

私は拙いビルマ語で「もっと柔軟に考えることはできないか」と何度も食い下がりました。先生は決して怒ることなく、私の話を静かに聞いてくださりましたが、どれだけ時間を費やしても議論は常に平行線でした。「また来週話そうね」とニッコリ微笑みながら部屋を出ていく先生の姿を見送りながら、私は歴史認識のズレを埋めることの途方もない難しさを痛感しました。

ヤンゴンで見たしなやかな生活の知恵と、日本で突きつけられた強固な歴史認識の壁。この二つの経験は、ミャンマーという社会の多面性を教えてくれると同時に、異なる歴史認識を持つ人々と向き合うには、安易な解決を求めず、辛抱強い対話を続けるしかないという、現在の私の研究姿勢の原点となっています。

──特に影響を受けたものや本を教えてください。

ミャンマーという一地域の歴史を、より巨視的な世界史の文脈に接続する上で決定的な影響を受けているのが、ヴィクター・リーバーマンの『Strange Parallels(奇妙な並行関係)[3]』です。本書は、東南アジア大陸部の歴史を、従来のようなヨーロッパ世界がアジアに与えたインパクトに対する受動的な反応としてではなく、あくまで土着的な発展のダイナミズムの中に位置づけます。特に興味深いのは、彼が同じく東南アジア史家であるアンソニー・リードらの強調する「17世紀の危機」説に対し、東南アジアの大陸部においてはむしろ14世紀から19世紀にかけて一貫した政治・文化統合のプロセスが進んでいたと反論している点です。

リーバーマンは、ビルマ、シャム、ベトナムといった東南アジアの国々が、遠く離れたフランス、ロシア、そして日本と驚くほど同じサイクルで、領域国家としての統合を達成していったことを説明しました。その背景として、1250年以降の地球寒冷化などの気候・環境要因も重視する彼の視座は、人間社会の営みを自然環境というより大きな枠組みの中で捉え直すきっかけを与えてくれました。このように、ユーラシア規模の同期したうねりとして、東南アジア地域を世界に位置づける手法は研究方法の参考になると同時に、大きな知的興奮となっています。

──調査を行う上での苦労や工夫をお聞かせください。

ミャンマーでの現地調査における最大の困難は、やはり不安定な政治情勢です。特に2021年以降、研究者の活動は大きな制約を受けています。訪問先へのアクセス、国内の移動、そして何よりも現地で協力してくれる人々の安全確保など、乗り越えるべきハードルは数え切れません。こうした状況下で、私が工夫しているのは、調査方法の多角化とネットワークの維持です。

ミャンマー国内に入れない時期には、植民地期の記録が豊富に残るロンドンの大英図書館での史料調査に時間を費やしました。さらに、デジタル技術の活用も欠かせません。信頼できる現地の研究者や友人と、暗号化された通信アプリで連絡を取り合い、安全な形で情報交換を行っています。もちろん、そこには倫理的な配慮が不可欠です。相手の安全を第一に考え、決して無理強いはしない。何をどこまで公開するのかは、常に協力者と話し合い、その意向を最大限尊重する。オーラルヒストリーは、人々の善意と信頼の上に成り立つものであり、その関係性を何よりも大切にすることが、困難な状況で調査を続けるための唯一の道だと考えています。

──研究の成果を論文や本にまとめるまでの苦労や工夫をお聞かせください。

論文執筆のプロセスは、出口の見えない長いトンネルをひたすら歩き続けるような作業です。特に苦労するのは、集めた膨大な史料やインタビュー記録という断片的な素材を、どのように論理的で説得力のある一つの「歴史物語」として再構成するか、という点です。シャン州という地域の視点と、ミャンマーという国家の視点、さらにはイギリスという帝国の視点をどのように往復し、それらの相互作用を立体的に描き出すか。書いては消し、の繰り返しです。

この苦しい作業の中で助けになっているのは、研究仲間との対話です。大学院生時代のゼミでの報告や、学会・研究会での発表で自分の未熟な分析を提示し、厳しいけれど的確なコメントをもらうことで、思考の偏りや論理の穴に気づかされました。他者の視点という「鏡」に映すことで、初めて自分の研究を客観的に見つめ直すことができる。論文執筆そのものは孤独な作業ですが、決して一人で完結するものではなく、こうした学術的なコミュニティに支えられてこそ成り立つものだと痛感しています。

──若者におすすめの本についてコメントをいただけますか。

私自身、まだ研究の途上にあり、若い皆さんに対して偉そうなことを言える立場ではありません。ただ、もし「世界の見方」を根本から問い直すような体験を求めているのなら、あえて一冊、人類学者エドマンド・リーチによる古典的名著『高地ビルマの政治体系[4]』をおすすめします。

タイトルだけ見ると、ミャンマー北部の山地に関する非常に専門的な本に思えるかもしれません。しかし、ここにはあらゆる方に触れてほしい、普遍的な「知の転換」が含まれています。リーチは、社会の仕組み(構造)とは、一度決まったら変わらない固定的なものではなく、そこに生きる人々が絶えず選択し、揺れ動き続ける動的なプロセスであると喝破しました。彼はミャンマー北方の山岳部に暮らすカチン族の社会分析を通じて、人々が「階層的な社会(グムサ)」と「平等な社会(グムラオ)」のどちらか一方に縛られるのではなく、状況に応じてそのあり方が変わっていく様相を描き出したのです。

今の世の中は、既存のシステムやルールが絶対的なものに見えるかもしれません。しかしこの本は、「厳然として目の前にある社会制度や区分は、人の作り出したものであり、状況的なものである」という事実を、強烈な説得力をもって教えてくれます。常識や既存の枠組みを疑い、世界を柔らかく捉え直すためのツールとして、ぜひ挑戦してほしいと思います。

──これから研究者になろうとする人にひとことお願いします。

研究は、非常に地道で孤独な作業の連続です。「点滴石を穿つ」という言葉があります──ちなみにビルマ語にも全く同じ表現(ကျောက်ပေါ်ရေကျပါများ အပေါက်ဖြစ်)があります。一枚の史料、一枚の写真、一人の証言……それらは小さな一滴に過ぎません。しかし、諦めずに積み重ねていけば、やがて分厚い定説の壁に風穴を開け、まだ誰も見たことのない新しい景色が見られると信じています。その「一滴」を投じる新たな仲間として、いつかどこかのフィールドでお会いできることを楽しみにしています。

──これからの野望をお聞かせください。

著者近影(シャン州・ゴッティ鉄橋)

短期的で、かつ最も重要な目標は、長年取り組んできた博士論文を基にした書籍を出版することです。学術的な価値を損なうことなく、専門家ではない一般の読者にも、これまであまり知られてこなかったシャン州の豊かな歴史と、ミャンマーが抱える問題の根深さを伝えられるような本にしたいと考えています。

長期的には、歴史研究者として、現代社会が直面する課題の解決に少しでも貢献したいという思いがあります。例えば、ミャンマーの和平構築プロセスにおいて、歴史的な経緯の誤解が対立を助長している側面があります。歴史研究が、異なる立場の人々の間に対話の土台を築く一助となれないか、常に模索しています。

さらに、日本国内にも視野を広げていきたいと考えています。現在、日本には様々な背景を持って暮らす、ミャンマーにルーツを持つ若者たちが大勢います。彼らが、親や祖父母が生きてきた激動の歴史や文化を知り、自らのルーツに対する理解を深めるための手助けができないか。それが今の私の思いです。具体的には、彼らと共に近現代史を学ぶ場を作ったり、家族の物語を記録するオーラルヒストリーのプロジェクトを立ち上げたりしたいと考えています。歴史という知を、単なる過去の記録として棚にしまうのではなく、彼らが他者と繋がり、共に未来を構想するための「対話の土台」として社会に開いていくこと。それが、歴史家としての私のこれからの野望です。

本記事は英語でもお読みいただけます。>>
“Toward Historical Research as a Foundation for Open Dialogue”

Interview with Taihei Kikuchi