怠惰礼讃 – CSEAS Newsletter

怠惰礼讃

Newsletter No.83 2026-01-14

マリオ・ロペズ(文化人類学)

昨年、短いサバティカル休暇を取り、そこで人生の「一時停止ボタン」を押すように日々の歩みを止めてみる貴重な機会を得ました。イギリスへ戻り、24年ぶりに、長いあいだ恋い焦がれてきた故郷の秋を味わうことができました。短い滞在でしたが、これまで訪れたことのなかった場所に出向いて探訪したり、長らく会っていなかった友人や、しばらく手にとっていなかった書籍と向き合う時間を過ごしました。

ある日の一冊がイギリスの作家、トム・ホジキンソンのHow to Be Idle(邦訳『これでいいのだ 怠けの哲学』)でした。2005年の出版当時、「いかに上手にサボるか」という技法に触れた本書は多くの読者の心をつかんでベストセラーとなりました。午前8時から始まる1日24時間に各章をなぞらえて、主に西洋における「仕事と余暇」の変遷をたどりながら、怠惰をめぐる思索へと読者を誘います。本書の核心には、自由主義的な消費資本主義、すなわち仕事への脅迫的な生き方への批判と、より楽しく充実した生き方を選び取ろうとする呼びかけがあります。いわば、「我々はどのように生きるべきか」という根源的な問いを読み手に投げかけるマニフェストのようなものです。サバティカルの最中にこの本と再会したことは、まさに私にとって、怠惰の歴史を探究するための格好のきっかけとなりました。ここで正直に告白しますと私自身、多くの人々と同じく疑いもなく遵守してきた「働くべし」という倫理観に、そろそろ逆らってもよいのではないかと感じているのです。

とはいえ現代、日本の大学のアカデミアで生きることは、複数のプロジェクトを同時に抱えつつ、授業を行い、さらには異なる言語を通じてタイムゾーンをまたいだ人間関係やネットワークを管理することを意味します。加えて、毎年のように求められる出版実績という「終わりなき宿題」もあります。こうした状況の中で、悠々と「怠ける」など簡単にできることではありません。

ところが本書にあるように、哲学者が「怠ける・サボる」という行為(そしてその技法)について考察し始めると、怠惰は独自の生命を帯びて生き生きと立ち上がってきます。英語には「怠ける」行為を表す語彙が驚くほど豊かにあり、実に幅広いニュアンスを使い分けることができます。laze about(だらだら過ごす)、lounge(ゆったりする)、loiter(ぶらつく、うろつく)、idle(怠ける)、dawdle(ぐずぐずする)、while away (time)(時間をつぶす)、slack off(サボる)、もっと砕けたものではveg out(ぼーっとする)やchill out(のんびりくつろぐ)といった言い回しもあります。

そして怠惰をめぐっては、世俗からの離脱や静けさ、その否定的な側面を含めて盛んに議論されてきました。ルネサンス期ヨーロッパではミシェル・ド・モンテーニュが、創造性の源泉として怠惰を重んじ、内省的精神の重要性を説きました。しかし一方で、ジャン=ジャック・ルソーのように、怠惰を退廃と見なし、人間社会のエネルギーは労働に向けられるべきだと考えた人もいました(もっとも彼は、物質的富を人間の幸福よりも優先する勃興期の資本主義的経済秩序には異を唱えましたが)。そして産業化初期のアメリカでは、ヘンリー・デイヴィッド・ソローが小屋の戸口に腰掛け、「かき乱すものとてない孤独と静寂にひたりながら、……うっとりと夢想にふけった」という美的・倫理的実践として、怠惰を静かに讃えていたのです(ソロー 1995)。

ホジキンソンの著書は、怠惰の秘められた美徳について私を思索の迷宮へと誘ってくれました。しかし、突き詰めてみれば、これは英語圏の読者に向けて、ある種の特権的な立場から「なぜ怠けるべきか」を語る伝統の延長上にある本でもあります。こうなると気になってくるのは、日本語では怠惰がどのように捉えられてきたのか、という点です。

実際、日本には怠惰について思索する重要な古典がいくつか存在します。鴨長明の『方丈記』が描く「遁世」とは、社会から大きく身を引く実践、すなわち都を離れ、職務や社会的義務を捨て、生活そのものを身体的にも精神的にも縮小させるという怠惰のあり方です。言うなれば、これは中世版「ミニマリズム」運動の先駆けともいえるでしょう。吉田兼好は随筆『徒然草』で思うままに筆をさまよわせ、「漂う怠惰」を文学的に表現しました。兼好の世界では時間に縛られないことが理想であり、その儚い魅力にじっくりと浸って「怠け心」を思索へと昇華させています。言ってしまえば、彼は「暇つぶし」を崇高な文化的営みへと格上げしてしまったのです。また、近代文学においても、日々の暮らしの中で「怠けること」や「暇であること」が自分にとってどのような意味を持つのかを書かずにはいられなかった作家たちが少なくありません。小説家・梅崎春生(1915–65)の随筆集『怠惰の美徳』では、しばしば柔らかい自嘲を交えながら、作家自身の怠惰が戦後日本社会に対する地に足の着いた省察へと転換されています。まさに「安楽椅子(というより布団)エスノグラフィー」と呼ぶべき怠け論です。

さらに思索の迷宮を掘り進めていくと、怠惰や無為のさまざまな姿を分類し、区別するための日本語群が浮かび上がってきます。試しに自分なりに、これらを怠惰から遊惰、そして閑暇としての無為へと至るスペクトラム上に位置づけてみました。まず、一方の端には現代英語の「indolence」に相当する、道徳的欠陥としての怠けを表す「怠惰」があります。次に、怠けから生じる一種の気力の弱さを表す「惰弱」や、単に居眠りしたという以上の含意を帯びた「惰眠」が続きます。そこから、倦怠や退屈な無為を思わせる「倦惰」、そして個人的にとても気に入っている「遊惰」に出会います。これは「遊びながらの怠け」「レクリエーション的なサボり」あるいは「ほんのり罪悪感を伴う余暇」とでも訳せるでしょう。さらに、より中立的な「惰性」を置くことができます。これはただ惰力に身を任せて流されている状態であり、美徳でも罪でもないです。そしてスペクトラムの最も高みに位置付けられるのが「悠々」が示すゆったりとした時間の広がりや、「清閑」が醸し出す静かで澄んだ閑けさといった、観照的な余暇としての「高尚な怠け」が位置づけられます。ここまで来ると、「何もしないこと」はほとんど道徳的であり、同時に美的な営みへと昇華されていると言ってよいでしょう。

しかし、こうした高尚な語彙が日常生活で用いられることはほとんどありません。むしろ怠け心の機微を見事に捉えているのは日常的に使われる豊富な擬音語・擬態語によってであり、動きや気分、心の状態を表す言葉の数々です。こうした表現は、怠惰の世界を一気に広げてくれます。「だらだら」や「ぐうたら」、「うだうだ」は言うに及ばず、サバティカル中に私がイギリスで満喫した「ぶらぶら」や「うろうろ」、「ゆらゆら」。そして「のんびり」「ゆったり」「ゆっくり」「ぼんやり」といった、いわば「真の怠惰」の領域。なかでも「ぼんやり」は、怠け心と無為のちょうど中間あたりに位置しながらも、どちらかといえば目的のない怠惰というより、内省的でふわりとした白昼夢のような状態に傾いています。

怠惰を讃え、歴史に名を残す「大いなる怠け者」たちを紹介するホジキンソンの本を脇に置きながら、異なる言語を行き来しつつ当てもなくさまよう実践も、私たちの「サボり方」をより豊かにしてくれるだろうと考えるのです。どうせ怠けるなら、いくつもの言語圏の上を、気ままに転がりながら怠けてみてもよいのではないでしょうか。

後記
本来であれば、この論考はだいぶ前に提出すべきものでした。しかし、怠惰の美徳の歴史へとつい寄り道を重ねてしまった結果、締め切りに間に合わなかったことを、編集の皆さまにお詫び申し上げます。とはいえ、言い訳を許していただけるなら、題材におそらく少々入り込みすぎたせいであります。

ブックリスト
トム・ホジキンソン『これでいいのだ 怠けの哲学』小川敏子訳、ソニー・マガジンズ、2006年(Tom Hodgkinson, How to Be Idle, Penguin, 2005.)
簗瀬一雄訳注、鴨長明『方丈記 現代語訳付き』角川ソフィア文庫、2010年
小川剛生訳注、兼好法師『新版 然草 現代語訳付き』角川ソフィア文庫、2015年
梅崎春生著、荻原魚雷編『怠惰の美徳』中公文庫、2018年
H.D. ソロー『森の生活 ウォールデン』飯田実訳、上・下、岩波文庫、1995年

(イラスト:Atelier Epocha(アトリエ エポカ))

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“In Praise of Idleness” by Mario Lopez