黃蕙蘭の伝記を読む – CSEAS Newsletter

黃蕙蘭の伝記を読む

Newsletter No.83 2026-02-10

ヘナレス ユーニン(比較文学、ファッション研究)

私の研究は、東アジア史における女性のファッションに焦点を当てています。女性が服装を通してどのように自己を表現してきたかを考察しています。服装は言葉では伝えきれないことを伝えるもう一つの言語であり、女性たちの服装には20世紀の複雑な政治が反映されている──そのような問題意識のもと、現在、あるインドネシア華人女性、黃蕙蘭(1889–1992)の伝記を各国語で読み、その比較を通じて各文化圏に見られる彼女に対する認識について考察しています。彼女は独自の「ファッション言語」をどのように築き上げ、それは近代東アジアの政治史にどのような影響を与え、それぞれの文化は彼女の「言語」をどのように受け止めたのか、たいへん興味を持っています。

砂糖王の娘、初代中国大使の妻

黃蕙蘭は、オランダ統治下のインドネシアで砂糖王として知られた中国移民二世、黃仲涵(1866–1924)の次女として生まれ、黃氏の子供たちの中で最も波瀾に満ちた人生を送った人物として知られています。スマランで恵まれた幼少時代を過ごし、黃氏の教育方針によって長女とともに英国人、フランス人家庭教師にヨーロッパ式の教育を受け、上流階級の若い女性として育てられました。最初の結婚相手は英国領事代理ボーチャム・フォード・ゴードン・コールフィールド・ストーカーで、わずか数年で離別しますが、このことは若き蕙蘭の輝かしい未来にはあまり影響を与えませんでした(英国では1920年代に入り、離婚が一般大衆にも認められるようになりました)。2度目は近代中国初の外交官、顧維鈞(ウェリントン・クー)との結婚で、大使夫人になった蕙蘭はさらに活躍の場を広げてゆきます。東洋と西洋の要素を巧みに融合した彼女の華やかな装いは人々の目をひき、ヨーロッパ上流社会に注目されます。やがてインドネシア、イギリス、フランス、中国、そしてのちにアメリカの新聞記事にも掲載され、まさに言語や文化の境界を越えて、独特のファッションでそのスタイルを世界に発信しました。装いが言葉のように人の意思を伝えるなら、彼女はこの言葉遣いに長け、それを力に自己を表現してきたと言えるかもしれません。

外交官の妻として、蕙蘭は近代中国の急速で複雑な政治情勢を目の​​当たりにしました。そして一度は中華民国のファーストレディへと上り詰めますが、彼女の人生の転機は1940年代、中国からニューヨークに移り住み、1956年に顧氏との結婚生活が破綻した時に訪れました。結局、蕙蘭はニューヨークでひとり、その後半生を送ります。顧氏が後に別の中国人女性と再婚したにもかかわらず、正真正銘の顧夫人は自分であると主張し続けました。

伝記に映る蕙蘭

黃蕙蘭の肖像画
チャールズ・ジュリアン・セオドア・サープ画、1921年。プラナカン博物館(シンガポール)所蔵(画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Oei_Hui-lan_portrait_painting.jpg

興味深いのは、蕙蘭が自分自身についてどのように語り、他の作家が彼女をどのように描いたかです。異なる文化圏の作家や読者はそれぞれ異なる背景知識を持っているため、それらは彼女の様々な側面を映し出しています。

蕙蘭自身は英語で2冊の自伝を出版しました。1冊目はHui-Lan Koo, Madame Wellington Koo: An Autobiographyで、1943年に出版されました。2冊目は1975年に出版され、そこで彼女は自身の人生についてより深く語っています。蕙蘭は百年の人生の50年以上をアメリカで過ごし、それは彼女にとって最も長い滞在となりました。そのため、彼女が一人称で書いた物語のほとんどは英語で出版されています。ファッション誌『ヴォーグ(Vogue)』英国版をはじめとするメディアに華やかなドレスをまとった姿を数多く残し、英語圏の人々は、東洋と西洋を融合させた彼女独自のスタイルを知ることができました。そして、彼女は自伝において自身の長い人生について多くを語りながらも、やはり読者には──イギリス人画家チャールズ・ジュリアン・セオドア・サープ(1878–1951)が1921年に描いた油絵の肖像画のような──1920年代の英国上流社会で活躍した若い蕙蘭として覚えてほしいと願っていたと考えられます。一方、1冊目の自伝と同じ年に出版された英国版ヴォーグ誌には、龍の刺繍が施された仕立ての良いチャイナドレス(旗袍)を着用した彼女の写真が掲載され、それは第二次世界大戦の暗雲の中に凛と佇む彼女のイメージを映し出しています。

インドネシア語で出版された伝記は、これまでに3冊見つかりました。2009年、2011年、2017年に出版されたもので、そのうち2冊は同じ著者・翻訳者によるものです。このことは、インドネシアの出版社あるいは社会が彼女の物語を再考することに関心を持っていることを示唆しています。インドネシア語版の内容を読み解いてみると、裕福な父親とその大家族との繋がりに重点が置かれていることがわかります。さらに、暗い色の表紙デザインは、どこか悲しみを感じさせます。まるで、彼女の数奇な人生を嘆き悲しんでほしいと読者に伝えているようです。

中国語圏の伝記や他の書物(繁体字・簡体字を含む)は、英語の2冊の自伝から翻訳されていますが、中国語圏では、蕙蘭についてより複雑なイメージを強調する傾向があります。顧氏との結婚は、戦時中の中国政治や、蔣介石とその妻宋美齢など、1930年代の政治家やその妻たちと結びつけられました。チャイナドレス(旗袍)はメディアにとって政治家の妻たちを示す共通言語であり、彼女たちのファッションスタイルは人々の間で話題になります。

蕙蘭の物語に触れた最新の書籍は、マレーシア人作家ダリル・イェップによるAs Equals: The Oei Women of Javaです。本書は19世紀後半の黃家に焦点を当てており、読者は蕙蘭の系譜やオランダ植民地支配下におけるインドネシア華人としての複雑な生き方を知ることができます。イェップの調査によると、娘としての蕙蘭のイメージは、西洋と東アジア双方の多文化的影響を反映しています。こうして、蕙蘭の物語は、彼女の人生が始まった東南アジアに再び戻ってきたのです。

Madame Wellington Kooあるいは黃蕙蘭?

蕙蘭の物語に初めて出会ったのは、13歳くらいの頃だったと思います。歯科医院の待ち時間に、手に取った雑誌を読んでいました。蕙蘭の夫のヨーロッパ旅行について書かれた記事の中に、彼女の生い立ちについて多くの紹介がありました。あれからずっと彼女の名前が記憶の片隅に残っていたのは、若い頃の彼女の姿がまさにお嬢様というイメージだったからでしょう。それから何年も経ち、研究論文やエッセイなど、彼女の名前をあちこちで目にするようになりました。東アジアと東南アジアのほとんどが第二次世界大戦の被害を受けて荒廃していった時、彼女の華やかな生活は戦争に影響されなかったと思われます。私たちがSNSで有名人のアカウントをフォローするのと同じように、彼女の人生をもっと知りたいという読者の望みは、世代と文化圏を超えて共通しているのかもしれません。

黃蕙蘭の伝記を読むという研究テーマに取り組むことで、彼女が自身をどのように認識していたか、そして様々な文化的文脈の中で彼女がどのように認識されてきたかを考察する機会に恵まれました。中でも、蕙蘭が社会的、文化的に夫より影響力を持った時にも、社会は彼女をウェリントン・クーの妻としてしか見なかったことは特筆すべきでしょう。1920年代に外交官の妻となった蕙蘭は夫とその肩書きに結び付けられるようになり、英語圏で彼女の姓はOeiからKooに変わりました。中国語圏とインドネシア語圏ではなお黃(Oei)が使われましたが、それは彼女と実家との切れないつながりを示唆していると言えます。

おわりに

京都大学東南アジア地域研究研究所で、英語、インドネシア語、中国語で出版された蕙蘭に関する資料を収集・研究してきました。そしてここで出会う研究者たちに、彼女に関するさまざまな知識を共有していただき、心から感謝します。中には、世界各地で彼女を描いた絵画を実際に見て、深い印象を持っている方もいます。今後は蕙蘭に関する文献を研究するだけでなく、さらに視覚文化や美術史の観点から彼女と彼女が生きた時代について探究する可能性も探ってみたいです。

本原稿は英語でもお読みいただけます。>>
“Legend and Legacy: Oei Hui Lan’s Biographies”
by YuNing Henares