パッケージ食品、パッケージ化された生活:フィリピン・マニラのスラムにおける企業ブランド食品 – CSEAS Newsletter

パッケージ食品、パッケージ化された生活:フィリピン・マニラのスラムにおける企業ブランド食品

Newsletter No.81 2024-01-10

エリベルト・ルイズ・タフォヤ(政治経済学)

本稿では、フィリピンをはじめとする東南アジアやグローバル・サウス諸国のスラム[1]を研究対象とする人々、あるいはそこで社会活動を行う人々、自治体関係者・政策担当者やその他のアクターを読者と想定して、拙著Packaged Food, Packaged Life: Corporate Food in Metro Manila Slums(『パッケージ食品、パッケージ化された生活:マニラ首都圏のスラムにおける企業ブランド食品』)の意義を紹介します。

本書の目的は3つあります。まず、フィリピン・マニラのスラムでは、なぜどの売り場でも小袋やボトル、缶などブランドもののパッケージ食品が何十種類も販売されているのか。本書では、スラムに住む人々に金銭的な余裕があるから、あるいは個人のライフスタイルの選択の結果といった一般的な説明は行いません。そうではなく、貧困地域に住む人々の生活が制約された条件のもとにあり、また人格的な成長を遂げる機会が限られていることが、スラムでブランド企業の加工食品(corporate packaged food: CPF)[2]の供給と大量消費を促進していること、そしてそれは歴史的に形作られてきたことを明らかにします。

次に、ブランド食品に取り囲まれた「パッケージ化された生活(packaged life)」は所与の、変えようのないものではなく、人々が生活を営む中で変化し続けていること、そしてそれを特徴づける社会的制約や食の条件を明らかにします。ここでは「パッケージ化された生活」を工業化された食の消費に関わるプロセスと定義します。それは健康や幸福をもたらす生命力(Ginhawa[3]を損ない、自然に悪影響を与え、人類の繁栄や人々が豊かに生きること(Buen Vivir[4]を制限しています。

最後に、Buen VivirGinhawaといった倫理的な概念を、CPFの小売と消費を批判的に捉えるためだけに用いるのではなく、「生活をパッケージ化する」プロセスそのものの切り崩しやそこからの転換を可能にするものとして提案しています。

背景

1980年代後半、ソ連崩壊に端を発する新自由主義思想の世界的な広がりを受け、増大する工業製品の供給のために市場を拡大するという企業の目標とともに、都市部では人々が企業のブランド加工食品を求めるようになりました(Winson 2013; Prahalad 2005)。1989年にエルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)のThe Other Path: The Invisible Revolution in the Third World(『別の道:第三世界における見えざる革命』)が出版されて以来、貧困層から利益を得ようとする激しい主張がビジネス界からなされるようになっていました。本書でデ・ソトは、ペルーのリマのスラムで得た情報に基づき、貧しい人々が水や公共サービスにスラムの外の市場価格の2倍から3倍を支払えるとして、貧困層の中にも富があることを示唆しました。この考えは “The Fortune at the Bottom of the Pyramid”(「ピラミッドの底辺にある富」)(Prahalad 2005)と題する論文によってさらに広まります。そこでは1日2.99ドル未満で暮らす世界の40億の人々が、しかるべく提供される商品やサービスを喜んで消費していると主張され、企業はこの事実をうまく利用できると暗に呼びかけるものでした。そしてフィリピンではヤクルト、味の素、ネスレ、ユニリーバなどの数社が、低所得層の間で自社製品の小売販売を行う起業家を支援するための具体的なプログラムを実施していくこととなります。

一方、企業ブランド食品は看板広告やマスメディアを通じて19世紀後半から消費者の間に知られるようになっていましたが、サリサリストア(sari-sari store)などの零細小売店舗におけるその存在感にあらわれているように、フィリピンのスラムで販売されるCPFの量は1990年代以降急激に増加しました。1970年代後半には都市貧困地域にあるサリサリストアの利益のうち、ブランド食品や飲料に関連するものは10%未満でしたが(Silverio 1975)、2010年代後半にはこの割合は54%に上昇しました(Ruiz-Tafoya 2018)[5]

パッケージ化された生活

マニラにはスラムの路地や街角のあちこちでサリサリストアが営業しており、大企業の資本[6]によるその独占は戦略的に行われました。しかし、CPFの販売ルートはサリサリストアにとどまらず、調味料などの工業食品を調理で活用するカレンデリア(carinderia、大衆レストラン。副業としてサリサリストアを営む場合も多い)、露天商や行商、公設市場、中規模の食料品店、倉庫、薬局、コンビニ、そして何よりスーパーにまで及んでいます。例えばマラテでは、ダコタ・スクウォッター地区の主要な入り口からわずか50メートルに大手スーパーのピュアゴールド・サンアンドレスがあり、サリサリストアへのCPFの業務用販売店舗として、一般家庭向けにはCPFの大量購入ができる小売店として機能しています。

スラムにある市場や(広告やSNSなどの)象徴的空間におけるCPF販売の拡大は、調理や食事、購入や販売など人々の食習慣に徐々に変化をもたらしました。私が調査した6つの地域(ダコタ、タタロン、パヤタス、カシグラハン、リビス、グゴル)それぞれで、ブランド食品の転売例がみられました。先にふれたように、人々はCPFをスーパーや卸売市場で購入します。あまり料理をしない家では、朝昼晩の食事を米や卵、野菜やイモ類を混ぜたレトルト食品で済ませることもあります[7]。また、大量のスナック菓子、菓子パンや調理パン、クッキーやキャンディやチョコレート、砂糖とミルクたっぷりのインスタントコーヒーや清涼飲料水が日常的に消費されています。

その結果、栄養不良や肥満となる子どもや若者、大人が珍しくなくなりました。また、プラスチックやリサイクルできないものが路上やごみ埋立地に溢れ、人々の自然からの疎外が強まる中で、環境問題にも悪影響が及んでいます。スラムの子どものほとんどは自分が食べているものが本来どのように作り出されるものかを知らないし、さらに悪いことに、彼らの味覚は人工香料によって作り変えられています[8]。同じ食品であっても、有名ブランドの牛乳、ココア、ジュース、シリアル、肉などを消費することは、他ブランドの消費よりも社会的に地位が高いといった象徴的な問題もあります。そしてサギン(saging)やサバ(saba)と呼ばれるバナナのような地元で採れる野菜や果物を消費することは貧しさのイメージに結びついていて、農業に従事する人々に対する感謝の念が次第に薄れているのです。

さらに新型コロナウイルス(Covid-19)のパンデミックは、スラムの住人たちに対するブランド企業の力を見せつけることにもなりました。第一に、CPFが民間の寄付や政府の援助を受ける幾千もの家庭に配られ、空腹をしのぐために使われました。第二に、工場、倉庫、供給網が「平時の通り」稼働しCPFが人々に供給されるよう、あらゆる政府の規制に加えて、警察と軍が動かすことのできる仕組みが利用されました。第三に、食品を配布するためのウェブアプリやオンラインプラットフォームが、企業だけでなく市民によっても立ち上げられました。これらは、CPFがマニラの人々にとって当たり前の日常生活の一部となっていることを示すものでした。

このように観察できた詳細な事例に基づき、私は本書を通して、貧しい人々がCPFを消費することと、彼らが自然との日常的なふれあいを通じて身体的、社会的、精神的に成長するための条件や機会が制限されていることとの間には表裏一体の関係があることを示そうとし、この制約された状況を「パッケージ化された生活(packaged life)」と呼んだのです。

底辺からアンパック(unpacking)する

パンデミックや感染症、頻繁な自然災害が今後も起こりうる以上、スラムの人々にとってパッケージ食品は不可欠ですが、企業に依存し続ける必要はありません。国の機関や地域コミュニティ組織が加工食品の生産と利用を行っていく上で、現在のCPFという不利益の多い路線から逸脱できる別の可能性がありうるのです。例えば南米では、グローバル市場で不利な立場に置かれた生産者や消費者を守れるよう組織や制度、政策を変革していくため、「Buen Vivir(よく生きる)」という倫理的な指針が一部の政府によっては憲法レベルでも採用されています。メキシコでは憲法改正は実現していませんが、チアパス州のカラコレス・サパティスタ(caracoles Zapatistas[9]のような例が残っており、自治コミュニティがサパティスタの加工食品(コーヒー、蜂蜜、ジャム、半加工穀物、種子、果物、野菜など)を生産、加工、流通、交換しています。都市部では公営企業リコンサ(Liconsa)の加工食品が低価格で流通しているだけでなく、コレクティーボ(colectivos)などの自主組織が自らの利益のために、(アステカ、ミシュテカ、トトナカ、サポテカ、マヤなど)先住民族の食文化に根ざした半加工食品を作り、販売しています。

フィリピンでは、新型コロナウイルスのパンデミック以降、同様の取り組みが恒常的に行われるようになりましたが、人々が自らの力で底辺から生活を解放(アンパック)していくためには、生命力と幸福の源を意味するGinhawa、そして素のままの食べ物、新鮮さと酸味という3原則をもつKinilow[10]といった食にまつわる哲学から内在的に、こうした取り組みをさらに強化していく必要があるでしょう。

[1]   「スラム」という言葉に否定的なニュアンスがあるという指摘があるが、ここでは無論住民を非難したり侮辱したりすることを意図するものではなく、彼らの困難な生活を引き起こしている(主に構造的な)状況を批判的に捉えている。

[2]   企業の加工食品(CPF)には包装食品、缶詰、瓶詰、飲料、調味料、油脂などがある。加工食品には超加工食品、工場製造食品、ジャンクフード、コンビニ食品などもあるが、CPFは小袋、缶、瓶などの包装に企業名やそのブランドロゴを使用するのが特徴である。

[3]   「Ginhawa」はもともとセブアノ語で、呼吸や生命力などいくつかの意味を持つ。フィリピンの人類学者ゼウス・サラザール(Zeus A. Salazar)によればそれは人間の生命力であり、人体においては「腸内にその居所がある……Ginhawaという語は、『胃ないし同じ胃の中。生きること、息をすること、呼吸、生命力。生物に生命を与えるものであり、比喩的には、栄養とともに、食べることで体内に取り込むもの』を意味する」(Doroja 2010, 12より引用)。

[4]Buen Vivir」(よく生きる、豊かな生活、良い生活などの意)は、母なる大地から資源を乱暴に採取し、世界市場で売ることに対抗する倫理的・政治的指針である。ここには、十分に測ることはできないが、人々が幸福になるために実践する生きることの質的な面も含まれる。たとえば、連帯、尊敬、配慮、愛情、他者への援助、あるいは人間と自然の調和に向けた行動などである。これらはいずれも、Gudynas(2011)が言う「Buen Vivirの実質的な姿」である。

[5]   現在では、酒類、タバコ、シャンプー、石鹸、クリームなどのパッケージ商品が利益の総額を補っている。

[6]   資本による零細小売店舗の支配は、大企業による生産と供給への依存の高まりだけでなく、消費の社会的関係、本稿ではスラム内での関係の変容をも意味している。詳しくはFine et al.(1996)、Veraza(2008)、Ruiz-Tafoya(2018)を参照。

[7]   レトルトの麺類にパック詰めや缶詰のソーセージ、ランチョンミート、コンビーフ、ミートローフ、ハンバーグ、スパム、イワシ、サバ、ツナなどを混ぜて調理されることが多い。

[8]   このような現象は、以前は欧米の中低所得消費者層の中でも見られたが(Fine et al. 1996参照)、スラムの消費者の多くは医療や教育、公共インフラへのアクセスが限られるだけでなく、家庭菜園や料理など工業化されていない食品をさまざまに利用するための資源(土地や水、知識や器具や方法、各種エネルギー)の利用も容易ではなく、その影響はより劇的である。

[9]   2023年11月までサパティスタ民族解放軍(EZLN)が実効支配していた地域に残るコミュニティサービスセンター。

[10]  Alegre and Fernandez(1991)によれば、「キニラウ(kinilaw)」とは、生の、酸味のある料理ないしその調理法で、バタン諸島(Batanes)からタウィタウィ島(Tawi-tawi)に至るフィリピン諸島の古来千年にわたる伝統に根ざしており、3つの柱をもつ哲学のもととなっている。1)ありのままの食べ物、シンプルで調和とバランスのとれた自然との出会い、互恵的な社会関係、2)新鮮さは「躍動する生命そのものであり……私たちを自然の生の衝動に結びつける」(Alegre and Fernandez 1991, 112)、3)酸味は「燃えさかる火ではなく液状の火の中で調理するプロセス」を意味し、繊細さや忍耐、分かち合いを必要とする(Alegre and Fernandez 1991, 113)。

参考文献

Alegre, Edilberto N. and Doreen G. Fernandez. 1991. Kinilaw: A Philippine Cuisine of Freshness. Bookmark.

De Soto, Hernando. 1989. The Other Path: The Invisible Revolution in the Third World. New York: Basic Books.

Doroja, Danica Mariz A. 2010. “Life and Death: The Absence of Ginhawa as the Cause of Sorrow.” Unpublished undergraduate paper.

Fine, Ben, Michael Heasman, and Judith Wright. 1996. Consumption in the Age of Affluence: The World of Food. London: Routledge.

Gudynas, Eduardo. 2011. “Buen Vivir: Today’s Tomorrow.” Development 54, no. 4 (December): 441–47. https://doi.org/10.1057/dev.2011.86.

Prahalad, Coimbatore. K. 2005. The Fortune at the Bottom of the Pyramid. London: Prentice-Hall.

Ruiz-Tafoya, Heriberto. 2018. Corporate Packaged Food in Slums: Market and Meanings at the Filipino Sari-Sari Stores. Social Theory and Dynamics 2: 18-37.

Silverio, Simeon G. Jr. 1975. The Neighborhood Sari-Sari Store. Quezon City: Institute of Philippine Culture, Poverty Research Series No.2, Ateneo de Manila University.

Veraza, Jorge. 2008. Subsunción real del consumo al capital. Mexico City: Editorial Itaca.

Winson, Anthony. 2013. The Industrial Diet: The Degradation of Food and the Struggle for Healthy Eating. UBC Press.

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Packaged Food, Packaged Life: Corporate Food in Metro Manila Slums
by Heriberto Ruiz Tafoya