帯谷 知可(中央アジア近現代史、中央アジア地域研究)
私の本来の専門はウズベキスタンを中心とする中央アジアの近現代史・地域研究なのですが、以下はそこからだいぶ越境することになった研究テーマのお話です。19世紀後半から20世紀にかけて、ロシア帝国ではその統治下にあった中央アジアのムスリム女性をめぐってどのような議論や言説が存在していたのかを探っていくなかで、『ムスリム女性の解放について』(サンクトペテルブルグ、1900年)という著作を遺したオリガ・セルゲーエヴナ・レベヂェヴァ(1854–1912以降?)というロシア人女性がいたことを知りました。実際にこの書物を読み、言及されている人物や文献について調べ、レベヂェヴァの生涯と彼女が関わりをもった人々に関する情報を集めていくと、思いがけず、ロシア帝国とその外側のイスラーム世界にまたがる、ムスリム女性の現状改善・地位の向上・教育・解放などを訴える議論の広がりと繋がりや、帝国的学知としての東洋学のありようが見えてきました。
オリガ・レベヂェヴァとは?

レベヂェヴァは、時に「ロシア初の女性東洋学者」とも呼ばれ、トルコ語への翻訳により初めてオスマン帝国にロシア文学を紹介した功績をもつ女性です(図1)。ロシア帝国カザン県の裕福な貴族の家に生まれ、後にその中心であるカザン(現ロシア連邦内のタタールスタン共和国の首都)の市長の妻になりました。6人の子の母でもありました。
ロシア帝国行政の上で重要な都市のひとつであり、同時にテュルク系ムスリムであるタタール人の文化的中心でもあったカザンで、レベヂェヴァはタタール語への関心をきっかけに、著名なタタール知識人のもとでタタール語その他のテュルク諸語、ペルシア語などを学び始め、やがて、まだ女性に門戸を開いていなかった帝立カザン大学の授業を聴講するなど東洋学の学びに目覚めていきます。11世紀イランの君主鑑『カーブースの書』のロシア語訳刊行(1886年)がレベヂェヴァのいわば学界デビューでした。

1889年、ストックホルムで開催された国際東洋学者会議に出かけたレベヂェヴァは、オスマン帝国の出版言論界の重鎮、アフメト・ミドハト(1844–1912)と出会います。レベヂェヴァの流暢なトルコ語と深い教養にミドハトは感嘆し、二人はおおいに意気投合したといいます(図2)。翌1890年秋、レベヂェヴァはイスタンブルを訪れます。彼女が持参したいくつかのロシア文学作品のトルコ語訳は、ミドハトが主宰する『テルジュマーヌ・ハキーカト(真実の翻訳者)』紙に次々と掲載されました。これによりレベヂェヴァは翻訳家「ギュルナル・ハヌム(ギュルナル女史)」(ギュルナルはレベヂェヴァのテュルク語風ペンネーム)として広く知られるようになり、時のオスマン帝国君主アブデュルハミト2世から勲二等仁愛章を授けられました(図3)。ミドハトを介して、『イスラームの女性たち』(1891年)、「イスラーム名媛伝」(1899年)などを書いたトルコ初の女性作家ファトマ・アリイェ(1862–1936)らとも交流を得ました。その後4年にわたってレベヂェヴァは毎冬をイスタンブルで過ごしています。

ロシア国内では、レベヂェヴァは1890年にサンクトペテルブルグで「東洋学協会」なる組織を立ち上げました。また、1893年にはタタール人の教育推進のため世俗学校の設立とタタール語・ロシア語バイリンガル新聞の刊行を内務省に願い出たことも知られています。
こうしてレベヂェヴァは、文学作品の翻訳や東洋学的な文献史料の読解・翻訳などテキストに耽溺するような仕事と、東洋学の組織化やタタール人の教育支援などの社会的実践を両輪として、国境を跨いで旺盛な活動を見せたのでした。
レベヂェヴァはイスラームとムスリムを擁護する在野の翻訳家・東洋学者としてヨーロッパでも有名になっていましたが、この頃にはロシア当局からはイスラームへの改宗やオスマン帝国に与するスパイ行為を疑われて、やむなく翻訳・研究に専心した時期もあったようです。確認される限り、レベヂェヴァは1899年、1902年、1905年、1912年と国際東洋学者会議に参加し、主にフランス語で多様なテーマの研究発表をしています(図4)。

レベヂェヴァの著作『ムスリム女性の解放について』を読み解く

1899年の国際東洋学者会議での報告のうちの1つを下敷きにしたこの著作は、当時のロシアも含めヨーロッパで広まっていた、イスラームとムスリムに対する蔑視や差別を含む植民地主義的言説に一石を投じようとの意図をもったものでした(図5)。その根底にあるのは、「クルアーンと預言者ムハンマドの教えに立ち返れば、本来イスラームは男女平等を説いている」という主張です。それをここでは「イスラーム的男女平等論」と呼んでおきましょう。
レベヂェヴァは、19世紀末のムスリム女性の現状について、男性に隷属させられ人間としての尊厳を認められない、極めて悲惨なものだという認識を示した上で、歴史上男性に劣らず活躍した数々の傑出したムスリム女性の例を挙げてイスラーム的男女平等論を主張し、しかしそれがアッバース朝期の10~11世紀以降後退し、女性に学びや男性と同等の権利を許さない偽りの教義が広まってしまったと述べます。ムスリム女性に男性との平等という歴史的権利を取り戻させ、イスラームと現代文明の双方にかなった生活を与えることは西洋の義務だと訴え、そのための基本的命題として、①イスラームは女性が男性と平等であることをけっして妨げない、②東洋に西洋文明を紹介し、東洋との融合をはかるために東洋学協会の組織化が必要である、③女子校・男子校の設立と西洋的教育を受けた教員の配置によって、ムスリム女性・男性双方の教育向上に努力する必要がある、の3点を提示しました。
この著作はある程度ロシア帝国内各地に流通し、当時1500万~2000万人を数えたというロシア・ムスリムの一部の人々に影響を与えたといいます。やや後には、カイロでフランス語に、テッサロニキでトルコ語に訳されて紹介もされました。
イスラーム的男女平等論の広がりと繋がり
レベヂェヴァが参照し賛同していたのは、当時のロシア知識人らが主導した、女性の自立を目標に掲げるようなラディカルな女性解放論ではなく、西洋的教育を受けた各地のムスリム知識人が展開していたイスラーム的男女平等論であり、彼女はそれを翻訳を介してロシアおよびヨーロッパに繋ぐハブの役割を果たしていたといえるでしょう。
彼女のイスラーム的男女平等論は、少なくとも次のような人々との直接・間接の繋がりの中で醸成されたと考えることができます。まずは、先に触れた、オスマン帝国のアフメト・ミドハトと、その秘蔵っ子ともいうべきファトマ・アリイェです。ミドハトはトルコ社会における女性の地位向上や文学分野への女性の進出を推進していました。その勧めにより、レベヂェヴァはファトマ・アリイェの『イスラームの女性たち』その他をフランス語などに翻訳しています。ファトマ・アリイェとレベヂェヴァは直接文通する間柄でもありました。
アラビア語で『女性の解放』(1899年)を刊行して大きな話題を呼んだ、エジプトのカースィム・アミーン(1863–1908)については、レベヂェヴァは著作の中で『女性の解放』に手放しの賛辞を送ってその要点を紹介し、ムスリム女性の解放を後押しするムスリム男性著述家としてのアミーンへの大きな期待を表明しました。
さらに、『イスラームの精神』(1891年)や『サラセン抄史』(1899年)などの著作を英語で著し、イスラームにおける女性の地位についても論じたインド・ムスリム、サイイド・アミール・アリー(1849–1928)も大きな影響を与えたことが明らかです。実際、歴史上活躍したムスリム女性に関するレベヂェヴァの記述のかなりの部分が『サラセン抄史』からの引き写しであることが確認できるのです。
レベヂェヴァの著作を「読み」「解く」作業によって、ロシア帝国、オスマン帝国、エジプト、英領インドを繋ぐイスラーム的男女平等論の広がりの一端が浮かび上がってきました。
レベヂェヴァとロシア実用東洋学
ムスリム女性の解放のために東洋学協会の組織化を主張したことは、レベヂェヴァの独創的な着眼だったといえるでしょう。ロシア内外に支部を置き、男性も女性も参画して、あらゆる宗教的・政治的問題と距離を置いて活動し、それを通じて西洋と東洋を繋ごうという構想でした。
この協会は、設立から10年後の1900年に当時の大蔵大臣セルゲイ・ウィッテにより正式に認可されることになります。その背景には、帝国の行政と商工業発展のため、帝国周縁部とそれに近接する近東・極東諸国の言語を使いこなすことができ、現地事情にも通じた専門家の養成が国家的重要課題となっていたものの、当時のロシアの科学アカデミーも大学もそうした実用教育に応えられなかったという事情がありました。帝国は、植民地経営や商工業の発展、諸外国との通商・外交などに資する「実用東洋学」を必要としていたのです。
レベヂェヴァにとって、スパイ容疑を払拭し、協会を実のあるものにするためには後ろ盾が必要だったと考えられますが、国家の後ろ盾を得るということは、もともと構想されていた、より啓蒙主義的な東洋学協会のアイデアが、帝国の必要とした実用東洋学に取り込まれてしまうことも意味したようです。1901年に帝都サンクトペテルブルグで始まった東洋語講座ではトルコ語、ペルシア語、日本語コースが設置され、ここでレベヂェヴァは、ムスリム女性に対する教育ではなく、将来のロシアの役人たちのためのトルコ語教授に携わることになったのです。協会の認可と同時にレベヂェヴァは東洋学協会の名誉総裁に任命されましたが、レベヂェヴァは「名誉職らしく」協会と距離を置くようになったと伝えられています。
その後、東洋学協会はタシュケント、ブハラ、アスハバード(現トルクメニスタンの首都アシガバト)、オムスク、ハルビン、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、オデーサ、チフリス(現ジョージアの首都トビリシ)などに支部を広げ、1910年にはニコライ2世により「帝立」を冠することを許されました。東洋学協会はロシア東洋学者協会という名称のもと、今も存在しています。しかし、現在語られるロシアの東洋学と東洋学協会の歴史の中で、レベヂェヴァが言及されることは、残念ながらほとんどありません。
おわりに
実用東洋学の波に取り込まれたことで、東洋学協会を通じたムスリム女性の解放というレベヂェヴァの夢は行き場を失ってしまったのかもしれません。1912年以降レベヂェヴァの足跡は見失われ、没年や亡くなった場所も確定されておらず、彼女の夢と現実の結末がどうなったのかはわかっていません。
現在のジェンダー・フェミニズム研究の視点から見れば、レベヂェヴァの議論はいくつもの点で批判を受け得るものであり、これをいたずらに理想化することはできません。しかし、半ば忘却されてしまったレベヂェヴァの興味深い人物像と、彼女を軸に見えてきたイスラーム的男女平等論の共有と共振をもたらすような繋がりの存在自体は史実として掘り起こす価値があります。繋がりの細い糸を辿って深堀りしていくことで次に何が見えてくるでしょうか。
より詳しく知りたい方のための参考文献
アミーン、カースィム 2024『アラブの女性解放論』(岡崎弘樹・後藤絵美訳、叢書・ウニベルシタス1169)法政大学出版局。
帯谷知可 2021「ロシア帝国からムスリム女性の解放を訴える─O.S.レベヂェヴァとA.アガエフのイスラーム的男女平等論」『史林』104(1): 113–154。
帯谷知可 2023「女性翻訳家がつないだイスラーム的男女平等論」姜尚中総監修、青山亨ほか編『アジア人物史 第10巻 民族解放の夢』集英社、329–352頁。
帯谷知可 2023「忘却の彼方のムスリム女性解放論─オリガ・レベヂェヴァを読み解く」磯貝真澄・帯谷知可編『中央ユーラシアの女性・結婚・家庭─歴史から現在をみる』(アジア太平洋研究叢書第6巻)国際書院、23–64頁。
佐々木紳 2023 「近代オスマン帝国における女性作家の誕生─ファトマ・アリイェとハイブリッドな評伝の虚実」磯貝真澄・帯谷知可編『中央ユーラシアの女性・結婚・家庭─歴史から現在をみる』(アジア太平洋研究叢書第6巻)国際書院、65–100頁。
※ 本稿は2024年度国立大学附置研究所・センター会議第3部会(人文・社会科学系)シンポジウム「通商と国境・安全保障の多元性」(2024年10月18日開催)で行った報告をもとに再構成したものです。