土佐 美菜実(ライブラリアン)
私たちの日常生活では外国語を理解するのに翻訳ツールや生成AIを利用することが今や当たり前になっており、その便利さを様々な場面で享受していることは言うまでもありません。そんな現代ですが、インターネットも辞書もない時代の人びとがどれほどの苦労を重ねて異国の言葉を理解しようとしたのか、子どもの頃は思いをはせることもありました。
柳父章の『翻訳の思想:「自然」とnature』(平凡社、1977年;ちくま学芸文庫、1995年)は西欧文化の流入にともない数多くの翻訳語が生みだされた幕末から明治において、natureの翻訳語として定着した「自然」をめぐる議論を扱っています。このnatureの翻訳語としてあてられた「自然」ははたして原語と全く同じ意味を伝えられているのだろうか?この2つの言葉の間には意味のズレが否応なしに存在し、そこに見いだされる日本と西欧との思想上の違いを解き明かしています。本書は演劇評論家の巌本善治と森鷗外との間で繰り広げられた文学や芸術についての論争から始まり、両者が互いの主張において用いる「自然」という言葉には、明らかに異なる意味が込められていることを指摘しています。巌本の述べる「自然」にはnatureの翻訳語として用いられる以前からの日本語伝来の意味が多分に含まれており、一方の森鷗外はnatureの翻訳語としての「自然」の意で巌本に反論するため、お互いの主張は平行線をたどり続けるのです。巌本はまず、文学や芸術は「自然の儘に自然を写」すことであり、「自然」という言葉のなかには文学や芸術で追求される優れた趣や美、あるいは人間の思想や精神がすべて含まれているという前提で論を進めていきます。一方の鷗外は「自然」とはあくまでも人為と対立する概念として捉え、人間によって見いだされる趣や精神といったものは内包されているのではなくむしろ相容れない関係であるという考えのもと巖本を批判していきます。ややこしいことに、このやりとりを通じて巖本の主張には鷗外から影響を受けた「自然」の意味が次第に混在していきます。しかし、それはふたりの論争に限ったことではなく、natureの翻訳語として一般化した後、日本社会においても広く「自然」という言葉には上述のふたつの意味が混在するようになり、近代日本思想にも影響をもたらしていくと柳父は論じます。
私がこの本を初めて手にとって読んだのは学部生の時でした。当時、私は環境保護思想の系譜に関心があり、自然保護や環境問題の文脈で当たり前のように登場する日本語の「自然」という言葉がもともと持つ意味についてより深く知りたいと思うなかで出会いました。そしてこの本を通じて翻訳というものが単なる言葉から異言語の言葉への変換ではないことを学びました。もちろん、こうした問題はnatureと「自然」に限ったことではなく、様々な翻訳語において議論され、その部分を解き明かすことで、多くの発見があると思います。
さらに言えば、原語と翻訳語の間にある違いを丁寧に明らかにしていく作業は、翻訳という分野に限らず、地域研究にも通ずる根本的な問題であると思っています。その地域で見聞きしたものをどう解釈するべきか?そしてどのような言葉を尽くして説明するのが最適なのか?現地の多様な背景をくみ取りながら理解を深め、伝えていく営為は、まさにある種の翻訳の作業と言えるでしょう。「何を今さらそんなことを……」と思われてしまうかもしれませんが、最初に述べたように翻訳ツールや生成AIの存在が当たり前になり、情報や言葉が溢れ、せわしない日々を過ごすなかで、こうした基本的な問いに改めて立ち返ることも時には必要なのではないでしょうか。
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“Toward the Fundamental Question of Translation”
by Minami Tosa