石井米雄コレクション『ナーイ・モート本 三印法典』 – CSEAS Newsletter

石井米雄コレクション『ナーイ・モート本 三印法典』

Newsletter No.83 2026-03-11

小泉 順子(歴史学、タイ史)

「石井米雄コレクション」とタイ伝統法研究

図版1 石井米雄コレクション所蔵『ナーイ・モート本 三印法典』、『ブラッドレー本 三印法典』、「奴隷法」(筆者撮影)

東南アジア地域研究研究所図書室所蔵「石井米雄コレクション」(以下「石井コレクション」と略記)の一画に、法律関係の書籍が並ぶ書架があります。徭役制度や奴隷制にはじまり、多岐にわたった石井米雄氏の研究の中で重要な柱を成したシャム(タイ)の伝統法『三印法典』(Kotmai Tra Sam Duang กฎหมายตราสามดวง)とその関連分野に対する研究関心を反映したものです。『三印法典』に関する石井氏の一連の研究は、この法典に関する基礎研究を極め、さらに比較史的観点から他地域の法にも及びました。その傍らで言語学者や情報学者と協力し、広く研究者に資するツールとして同法典の『コンピューター・コンコーダンス』(総辞用例索引)の編纂・出版(Ishii, Shibayama, and Aroonrut 1990, 2008)、およびデータベース化とオンライン公開にも取り組まれ、類をみない成果に結実しました。

書架の間で目を惹く一冊が、ここに紹介する『ナーイ・モート本 三印法典』(原題はNangsu Ruang Kotmai หนังสือเรื่องกดหมาย「法律の書」の意)です。背表紙には日本語で『ナイ・モート本 三印法典』と書かれており、石井コレクション所蔵『ブラッドレー本 三印法典』(後述)中の一冊と同様、タイ国立図書館からマイクロフィルムを取り寄せ、それを京都でプリントアウトして綴じたものと考えられます(図版1参照[1])。貴重書の収集に注いだ石井氏の情熱と努力がうかがわれます。

石井コレクション所蔵『ナーイ・モート本 三印法典』

『ナーイ・モート本 三印法典』とは、小暦1211年(1849/50年)に、モート(Mot โหมด)という名の知識人により印刷に至ったという『三印法典』の活字刊本です(ナーイ นายはいわば英語の「ミスター」にあたり、ナーイ・モートは「モート氏」の意。以下『ナーイ・モート本』と略記)。

『ナーイ・モート本』の刊行とそれに続く出来事を石井氏は次のように記しています。

〔前略〕「三印法典」を刊行して、世にひろめようとの努力が、はじめて行なわれたのは、遠くラーマIII世の治世にさかのぼる。当時の新知識の一人として、西洋の印刷技術のタイへの導入に深い興味をいだいていたNai Mot Amatayakun(のちのPhraya Krasap)は、三印法典の写本1組を入手して、これを2冊に印刷して出版しようとした。ところがこの企てを知った時の国王ラーマIII世は、すでに発売されていた第1巻をことごとく没収するよう命じ、これをすべて焼却せしめた。「焚書」の厄をまぬがれたNai Mot本がどれほどあったかについては、全く不明であるが、今日もバンコクの国立図書館(The National Library, Tha Wa Sukri)に、その1本が保管されている。〔後略〕(石井 1969: 169)[2]

図版2 匿名の手書き文章(筆者撮影)

石井コレクション所蔵『ナーイ・モート本』(以下『IYナーイ・モート本』と略記)をひらくとまず目に入るのが、三世王の命による「焚書」のエピソードを記した匿名の手書き文章です(図版2参照)。マイクロフィルムからの印刷のため判然としませんが、表紙か中表紙に貼られた紙片に書かれていると推察され、その内容から――引用文献には見当たりませんが――この文章と書籍が上記石井氏の記述の根拠の一つを成したと考えられます[3]。なおここでモート氏の名は「モート・アマータヤクン」と記されており、これが、ファミリーネーム導入の翌日の1913年6月23日に「アマータヤクン」という名字が一族に下賜されて以降の記述であることが示唆されます。

ページをめくるとタイトルページが現れ、前述のNangsu Ruang Kotmai(「法律の書」の意)というタイトル、その下に「小暦1211年、酉年末尾1の年。55冊の写本(samut)を2巻に印刷した。この第1巻にはあわせて17項目を収める」との説明、そして「プラタマサート」から「ウトーン」まで17項目とページを列記した目次が示されています(図版3参照)。Ishii(1986: 144)によれば、この「55冊」という数字は、Chinese Repository(1850: 551)の記録と一致し、そこではシャムの貴族がこの印刷費を提供したと説明されていました。

『ナーイ・モート本』は2巻のうち第1巻を刊行するにとどまりましたが、1862年から63年にかけてアメリカ人宣教師D.B.ブラッドレーが新たなタイトル(Nangsu Ruang Kotmai Muang Thai หนังสือเรื่องกฏหมายเมืองไทย「タイの法律書」の意)を付して、法典全体を2巻本(『ブラッドレー本』と略記)として刊行しました(石井 1969: 169–170)[4]。この書は10刷(1896年)まで刷を重ね、石井コレクションは発行年の異なる『ブラッドレー本』も所蔵しています(図版1参照)。

比較の中の石井コレクション所蔵『ナーイ・モート本』

さて昨年12月、長年『三印法典』研究やその英訳に取り組んできた第一人者クリス・ベーカー氏とパースック・ポンパイチット氏の画期的な論考(Baker and Phongpaichit 2025)により、フランス国立図書館所蔵『ナーイ・モート本』(以下『BnFナーイ・モート本』と略記)の所在が明らかになりました[5]。それを踏まえて石井コレクション所蔵『IYナーイ・モート本』を、比較の観点から少し考えてみたいと思います。

興味深いことに、『BnFナーイ・モート本』と『IYナーイ・モート本』間には依拠した原典の冊数や目次構成において明らかな相違がみてとれます。すなわち『IYナーイ・モート本』は、55冊の写本を2巻に印刷し、第1巻はあわせて17項目を収めたのに対し、『BnFナーイ・モート本』は、「21冊の写本(samut)を1巻に収めるが、この巻にはあわせて16項目を所収する」旨が記されています(図版4参照)。『IYナーイ・モート本』の所収項目が多いのは、冒頭に「プラタマサート」と「インタパット」という2項目が加えられているからです[6]

こうした違いの一方で、両者はタイトル、出版年(小暦1211年)が同一で、またタイ語のスペリング、フォントも同じとみうけられます。フォーマットについては、『IYナーイ・モート本』では冒頭「バーンパネーク」の最初に “Samut phra aiyakan laksana phrathammasat” の1行が挿入されている点が異なるものの、追加された二項目を除いた『IYナーイ・モート本』の「プラタマヌーン」(27ページ)以下最後までと、『BnFナーイ・モート本』の「プラタマヌーン」(3ページ)以下最後までは、組版、ページネーションを含めて同一です(1ページ28行、1行の文字数も同じ)。

一方『ブラッドレー本』の第1巻は、『IYナーイ・モート本』と同じく「55冊の写本を2巻に印刷し、第1巻はあわせて17項目を掲載する」ことが記されています[7]。しかしながら、石井氏も指摘しているとおり『ブラッドレー本』は、刊行年、タイトル、組版、ページネーションが異なり(Ishii 1986: 151)、またタイ語のスペリングなど細かな点にも『IYナーイ・モート本』および『BnFナーイ・モート本』との相違が確認できます[8] (図版5参照)。

図版4『BnFナーイ・モート本』タイトルページ(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b525252314)
図版3『IY ナーイ・モート本』タイトルページ(筆者撮影)
図版5『ブラッドレー本』第1巻巻末タイトル・目次ページ(筆者撮影)

『IYナーイ・モート本』は果たしてどのように位置づけるべきなのでしょうか。石井氏はこれを『ナーイ・モート本』としましたが、『BnFナーイ・モート本』とは所収項目が異なっています[9]。それでは『ブラッドレー本』に分類されるべきなのでしょうか。マイクロフィルムからの印刷では原本のサイズや料紙がわからず、これ以上の検討は難しいのですが、いずれの場合も不可解な点が残ります。タイ国立図書館のどこかに所蔵されるはずの『IYナーイ・モート本』の原本の所在が明らかになれば、疑問は解けるのでしょうか[10]

探求の旅は終わりませんが、タイ法制史研究において「石井コレクション」はこの先も貴重な史料の宝庫であり続けることは確かと思われます。

謝辞

本稿を記すにあたりクリス・ベーカー氏より貴重なアドバイスをいただきました。深く感謝申し上げます。本稿の内容に関する責任はすべて著者に帰します。

[1] 残念ながら石井氏がいつこのマイクロフィルム版を入手したのか不明です。

[2] 一部タイ文字の記載と付されていた注を省きました。Ishii(1986: 151)も参照。

[3] やや意味がとりにくいためか、4行目に言及されるブラッドレー氏の関与について、石井氏は上記説明で言及を避けているようにも思われます(石井 1969: 169)。一方Ishii(1986: 151)では、印刷におけるブラッドレー氏の助力に言及しています。また注において「焚書」説に対して異説があることも紹介しています。

[4] ただし原書背表紙タイトルにはKotmai กฏหมายとのみ記されています。

[5] https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b525252314

[6] 『IYナーイ・モート本』では上から7番目の “Na Phonlaruan/Na Thahan” を1項にまとめて17項目としていますが、『BnFナーイ・モート本』では上から5番目と6番目の “Na Phonlaruan” と “Na Thahan” が別項目になっており、合わせて16項目となります。

[7] 『ブラッドレー本』第1巻目次では “Sakdina Phonlaruan” “Sakdina Thahan Huamuang” の2項目となっています。

[8] 『ブラッドレー本』は1ページ24行。タイ語のスペリングの相違として、例えば「法」を意味するkotmai は、『IYナーイ・モート本』、『BnFナーイ・モート本』ともにกหมายであるのに対して、『ブラッドレー本』はกหมาย、またuthonは、前者ではอุธร、後者ではอุธรとなっています。

[9] Burnay(1930: 154)に示される『ナーイ・モート本』の目次は、『IYナーイ・モート本』の目次と同じと考えられます。

[10] Winship(1986: 52)は、パリとロンドンに所蔵される現存本は、それがラーマ4世の許可により不完全な形で刊行されたことを示していると指摘しています(下線は筆者)。

引用文献

Baker, C., and Phongpaichit, P. 2025. “Nai Mot’s Printing of the Three Seals Law in 1849/50.Journal of the Siam Society 113(2), pp. 25–48.

Burnay, J. 1930. “Inventaire des Manuscrits juridiques siamois dits chabap luang et chabap rong song ratchakan thi 1” (1), Journal of the Siam Society 23 (3), pp. 135–203.

石井米雄. 1969. 「三印法典について」(“Introductory remarks on the Law of Three Seals”)『東南アジア研究』6 (4), pp. 155–178.

Ishii, Yoneo. 1986. “The Thai Thammasat (With a note on the Lao Thammasat).” In Hooker, M.B. ed., Laws of South-East Asia Vol. I: The Pre-Modern Texts. Singapore: Butterworth & Co. (Asia) Ptc. Ltd, pp. 143–203.

Ishii, Yoneo, Shibayama, Mamoru, and Aroonrut Wichienkhiew. 1990. The Computer Concordance to the Law of the Three Seals, Datchani khon kham nai Kotmai Tra Sam Duang. Bangkok: Amarin Publications. 5 vols.

Ishii, Yoneo, Shibayama, Mamoru, and Aroonrut Wichienkhiew. 2008. The Computer Concordance to the Law of the Three Seals, Datchani khon kham nai Kotmai Tra Sam Duang. Revised edition. Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University.

Winship, Michael. 1986. “Early Thai Printing: The Beginning to 1851.” Crossroads 3(1), pp. 45–61.

本記事は英語でもお読みいただけます。>>
“From Professor Ishii Yoneo Collection: Nai Mot’s Edition
of the Three Seals Law of Siam” by Junko Koizumi