芹澤 知広(文化人類学、華僑華人研究)
(天理大学国際学部教授、京都大学東南アジア地域研究研究所客員教授)
サイゴン陥落から50年
現在「ホーチミン市(Ho Chi Minh City)」という名前で日本人によく知られているベトナムの都市は、かつては「サイゴン(Saigon)」として知られていました。1954年から1975年まで、今のベトナム(今のベトナム社会主義共和国)は、北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南ベトナム(ベトナム共和国)に分かれていて、その南ベトナムの首都がサイゴンでした。
このサイゴンが1975年4月30日に北ベトナムに主導された軍隊によって制圧され、「ベトナム戦争」として知られる内戦が終わって南北が統一されてから、今年(2025年)は50年の節目にあたります。
私は、この当時サイゴンで編集・印刷・発行されていた中国語新聞を現在調べています。私が資料として見ていますのは、京都大学東南アジア地域研究研究所(CSEAS)の図書室がマイクロフィルムを所蔵する、1966年9月から1967年12月にかけての時期の4つの新聞です。
新聞のなかの広告

地域研究において新聞は重要な研究材料です。その理由は、ラジオやテレビ、最近のインターネットが登場するよりも前から、新聞は国民の知るべき情報を載せて伝える重要なメディアであり、世論の形成にも重要な役割を果たしていたからです。
南ベトナム時代のサイゴンには、1930年代から40年代にかけての日中戦争の時代、さらには後の中華人民共和国の成立(1949年)の時期に、中国大陸から移民してきた華人が多く居住し、商業活動に従事していました。その華人の社会生活のなかで中国語新聞は重要なメディアでした。
この時代のサイゴンの華人の社会は、南ベトナムと関わりの深い中華民国(1949年以降、台湾に移った蒋介石の政権)の影響下で営まれました。中国大陸の中華人民共和国では「文化大革命」が行われ、伝統文化の破壊がより一層進んでいました。それに対抗して台湾の中華民国では、「中華文化復興運動」が推進されました。この流れのなかでサイゴンでは、華人子弟に中国語を教える学校、同じ姓の人たちが祖先を祀る「宗親会」などの結社、そして中国語新聞を発行する新聞社が多く設立されました。
中国語新聞には、国外・国内の重要な政治事件が報道されるだけではなく、個人的な出来事についてのニュースも「広告」のかたちで多く載せられています。その多くは、日本の地方新聞で今も時々見ることがあるような、自分の家族が死んで、どこでこれから葬式を行うという、葬儀を告知する広告であったり、自分たちは(あるいは自分たちの子どもたちは)結婚したという婚姻を告知する広告であったりします。
1975年4月30日に南ベトナムの政権が崩壊すると、旧政権が認可し、中華民国の影響を受けて発行されていた多くの中国語新聞はすべて廃刊となりました。そしてさっそく翌5月1日からは、それ以前にもサイゴンにおいて「地下で」、つまり非合法に印刷されていた北ベトナムに関係した中国語新聞が、後の「ホーチミン市」の中国語新聞として登場しました。その新聞が今なお唯一、市内で発行されている中国語新聞の『西貢解放日報』です。
近年は『西貢解放日報』に地元の人々・団体が多く広告を出し、「広告版」という別刷りが折り込まれていました。その紙面は、ホーチミン市の華人を研究してきた私にはとても有用でした。
しかし本年(2025年)の7月31日をもって、「西貢解放日報」は、紙での印刷・発行をやめてしまい、8月以降はインターネット版のみを発行することになりました。インターネット版には広告が載らないため、個人や家族の出来事を伝えてきた華人社会の重要な媒体が、ついにこの夏、消滅してしまいました。
家族の慶事の広告
1960年代当時のサイゴンの華人にとって、自身の出身地のグループが経営する病院は、自身や家族が患者として世話になる時に重要なだけではなく、その経営に対して、その人なりの貢献を続けることで、自身の所属する地域社会とつながり、その個人や家族の資産が社会事業へと回される重要な施設でした。
ここではサイゴンの「客家」グループの病院である「崇正醫院」の当時の理事長であった高学田をめぐる広告を例にして、そのことを見てみましょう。
『建國國際聯合報』の1967年1月16日付には、「崇正醫院董事長 高學田先生令郎 金興仁兄弄璋之喜」という広告が、余秋他の名前で出されていて、高学田の息子の高金興に男の子が生まれたことがわかります。そして、この高学田の男の孫の誕生を祝う広告は、同紙1月17日付にも「華英學校 李伯持」という人物が出しています。
また同紙1月15日付には、高金興の所属する国際ライオンズクラブのサイゴン西部支部が、「高金興獅兄弄璋之喜」という祝賀広告を出しています。
これらの祝賀広告に対し、同紙1月18日付には、高学田と高金興が親子で「鳴謝啓事」という感謝を記す広告を出し、そのなかで「華裔六大醫院」(「崇正醫院」を含むサイゴン華人社会の6つの病院)に対し、「醫藥費」として各5千元ずつ、合計3万元を寄付するということが書かれています(3万元は今の日本の金銭感覚では30~60万円くらいでしょうか)。そして、その広告のとなりには、さっそく「華裔六醫院聯謝啓事」として、高学田親子が各病院に5千元ずつの寄付をしたことに感謝する広告を、中正・六邑・福善・広肇・海南・崇正、の6つの病院が連名で出しています。
このように当時のサイゴンの華人社会では、病院を重要な相互扶助施設として、華人の資金が社会事業へと回されるシステムがありました。そしてこの個人の冠婚葬祭と地域社会とのつながりは、中国語新聞に出す広告の応酬を通じて華人社会のメンバーに詳しく知らされていました。

なお本研究は、JSPS科研費JP23K11617 の助成を受けたものです。
本記事は英語でもお読みいただけます。>>
“Chinese Society in the Republic of Vietnam in the 1960s:
Reading Chinese-language Newspapers Published in Saigon”
by Satohiro Serizawa

