貴志俊彦教授 インタビュー
貴志俊彦教授略歴:広島大学大学院文学研究科を単位取得満期修了後、島根県立大学総合政策学部、神奈川大学経営学部などを経て、2010年度に京都大学に着任。地域研究統合情報センター教授を経て、現在は東南アジア地域研究研究所教授。東京大学大学院情報学環客員教授、日本学術会議連携会員、公益財団法人東洋文庫客員研究員、『만주연구(満洲研究)』編集諮問委員などを兼務する。2020~2023年度には日本学術振興会学術システム研究センター主任研究員を務める。研究は、アジア史、東アジア地域研究、表象・メディア研究など、多様な分野にわたる。インタビュー本文のとおり、国内・海外共同研究の成果を多数発表している。
聞き手:菊池泰平(京都大学東南アジア地域研究研究所 機関研究員)
ビジュアル・メディア研究の海外共同研究への展開
──ご研究について教えてください。貴志先生はビジュアル・メディア研究を起点に国内・海外で多くの共同研究に従事してこられました。それぞれのテーマに取り組むようになった動機や経緯について、またそれぞれの関係について教えてください。
京大に異動してきてから15年目を迎えます。その間、多彩な人と多様な資料に出会い、そのことで研究の対象や方法論が広がっていきました。京大赴任前は、とくに都市史研究、ラジオ・メディアの研究を進めていました。
異動後は、共同利用・共同研究拠点のプロジェクトに参画し、ウェブデータベースの構築とこれに連動するビジュアル・メディアの関係を中心に研究をスタートします。第1作は『満洲国のビジュアル・メディア』(吉川弘文館)でした。その後は、科研プロジェクトの成果として、国内外の機関と連携した書籍の刊行が中心となります。中央研究院台湾史研究所と『視覺臺灣:日本朝日新聞社報導影像選輯』、香港浸会大学と『描かれたマカオ』(勉誠出版)、スタンフォード大学フーヴァー研究所図書館・文書館との合同論集Fanning the Flames: Propaganda in Modern Japan、国内の研究者とは『よみがえる 沖縄 米国施政権下のテレビ映像』(不二出版)や『京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真資料集成』(国書刊行会)などを刊行してきました。どちらかというと、こうしたビジュアル・メディアの研究は、海外から注目されることが多いですね。
韓国の満洲学会との研究交流も進みました。そもそもは、共同で編纂した『二〇世紀満洲歴史事典』(吉川弘文館)が韓国で合同書評されたことがきっかけでした。その後、この学会に参加するようになり、いまは編集諮問委員も務めています。この学会の定期刊行物である『만주연구(満洲研究)』には、朝日新聞富士倉庫資料をもとにした中国東北部の国境問題や、写真・慰霊碑として残る軍用動物などについての論文を掲載しています。
こうしたビジュアル・メディア研究が糸口となって、2つのテーマへと発展していきます。ひとつは各種メディアを複合的に使った広報研究やプロパガンダ研究、もうひとつはメディアを伝達する技術史あるいはコミュニケーション研究です。前者については、ハーヴァード・イェンチン図書館が所蔵する貴重資料をもとに「映画広報人青山唯一が遺したもの」と題した論文を広島の『史学研究』に発表しました。これをひとつのきっかけとして、多様なメディアの政治宣伝利用の変化についてまとめたのが『帝国日本のプロパガンダ』(中央公論新社)です。この本は日本国内でもそれなりに評判となり、韓国語版『제국 일본의 프로파간다』の刊行へとつながりました。また、ちょっと筋は違いますが、視聴覚メディアの地域間連鎖への関心から、SPレコード研究の成果を『東アジア流行歌アワー』と題して岩波書店から刊行しました。後者の技術史方面の研究については、「いまを知る、現代を考える 山川歴史講座」の一冊として刊行された『情報・通信・メディアの歴史を考える』や、『日中間海底ケーブルの戦後史』(吉川弘文館)、京大人文研の村上衛さん編纂の論集『近現代中国における社会経済制度の再編』掲載の論文「1970年代東アジアにおける広帯域通信ネットワークの形成」、同じく石川禎浩さん編纂の論集『20世紀中国史の資料的復元』掲載の論文「1940年代の『影像力』」などがあります。
さまざまなメディアを研究する根底には、国家や境域を超えるトランスナショナル・メディアの生産・流通・受容が、時代や地域によっていかに変容していくかという問題意識があります。
トランスナショナルという視点にかかわる問題として、帝国史研究や捕虜問題、移民史研究も進めています。以前から中国の租界問題や外国人問題に関心をもっていたのですが、イェール大学所蔵の宣教師文書から、戦時期の中国大陸における日本人など多様な捕虜の存在を知りました。これをまとめたいと思って、一気に書き上げたのが『アジア太平洋戦争と収容所』(国際書院)です。さらに、同じ文書を使って、戦時中国におけるドイツ人捕虜問題もとりあげ、これがボン大学オリエント・アジア学研究所の論集Ostasien im Blick (East Asia at a glance), OSTASIEN Verlagに掲載されました。1930年代の日系移民問題についての論文は、フーヴァー研究所出版会から刊行された論文集Japanese America on the Eve of the Pacific Warに掲載されています。
夢と現実との葛藤:耳を傾け、好奇心を持ち続ける
──きわめて多方面の研究に精力的に従事してこられましたが、貴志先生が研究の道に進むきっかけはどのようなものだったのでしょうか。高校時代、大学時代はどんなことに関心をお持ちでしたか。大学院ではどのような影響を受けたでしょうか。
高校2年生までは、工学部へ進学希望でした。大学でロボット工学を学ぶというのが、小学生以来の夢でした。しかし、健康をそこねて長期入院し、物理の授業についていけなくなり、その夢は捨てざるをえませんでした。
大学でモンゴル語を学び始めたときは、それはおもしろくて、のめり込みました。しかし、やはり健康面の理由で留学の夢は断念し、モンゴル語への情熱も潰えてしまいます。大学を卒業する頃はなかば世捨て人のような気分でしたので、進路については相当に悩みました。学芸員になるか、研究者の道を進むか、あるいはその他か。その頃、中学時代の恩師が北見工業大学で奉職されていましたので、相談に行ったのです。先生は開口一番、「貴志君、それは研究やで。」このひとことで私の人生のレールが決まりました。じつに単純だった自分がいますが、ときには先達の言葉を素直に信じることも必要かと思っています。
大学院では、当初希望していたモンゴル近代史ではなく、指導教官のアドバイスにより、清末の政治史に取り組むことになります。このレール変更も、素直にというか、単純に受け入れました。その頃、すでに中国語を一生懸命勉強していたこともあって、それほど抵抗はなかったです。大学院には中国近代史を研究する先輩や仲間もいっぱいいたこともよかったと思っています。研究仲間は大切です。最初の就職先で苦戦していた時期、同世代の海外の研究仲間に、どれほど励まされたことか。研究とは自分で開拓するものと考えていましたが、若い頃には内外の研究仲間からのいい意味での刺激は少なくなかったのです。
──進学されてから、これまでの研究のなかで印象的に残っているひと、もの、場所がありましたら、エピソードを教えてください。
当初より東アジアを中心に研究していますが、むしろそうした世界観とは違った環境にも惹かれていました。戦後早期にハーヴァード大学で研究されていた大学院の指導教官は、アジアを理解するには欧米の社会を見なければならないと何度もおっしゃっていました。その言葉を胸に、若い頃からアジア以外の国々での資料調査も継続的に進めてきました。ときには自費で、しかも家族を連れて。そうした活動が報われたのでしょうか、これまでハーヴァード・イェンチン図書館、スタンフォード大学フーヴァー研究所図書館・文書館、ボン大学オリエント・アジア学研究所などと共同研究をおこなう機会を得ることができました。英語が苦手なわりには、思い切った試みを進めています。
欧米のキャンパスの空間や風景はじつに魅力的です。敷地の広さや自然の豊かさ、各国から訪れる留学生や研究者の姿、多様な資料や図書。こうした場所からアジアを眺める、アジアを研究することは、どのような意義をもつのだろうと、いつも思ってきました。いまは、アジア研究への関心が、たんなる知的好奇心にとどまらず、彼ら研究者自身のアイデンティティと深くかかわっていることもわかってきました。
──特に影響を受けたものや本についても教えてください。
直接、間接に影響を受けた本は少なくありません。ビジュアル・メディア研究を進め始めた頃に読んだJohn A. Walker, Sarah Chaplin, Visual Culture: An Introduction, Manchester University Press, 1997(邦訳:岸文和他訳『ヴィジュアル・カルチャー入門―美術史を超えるための方法論』晃洋書房、2001年)をあげておきましょうか。カルチュラル・スタディーズの視点から、ヴィジュアル・カルチャーとはなにか、それを研究することの意義はどういうことなのかを紹介した一冊です。カルチュラル・スタディーズという研究手法に賛同しているわけではないのですが、美術をめぐる政治や制度、技術への目配りなどについて教えられることも多かったです。私の場合、こうした理論的枠組みが弱いので、いまでもパラパラとめくることがあります。ただ、ずいぶん古い本ですので、時代や研究潮流の変化、なにより自分自身の問題関心の変化を感じますけども。
好奇心と粘り強さを支える鍵とは?
──研究の成果を論文や本にまとめるまでの苦労や工夫をお聞かせください。
日本の研究者には、もっと企画力が必要ではないかと思っています。研究動向をつぶさに調べることも大切ですが、ときには飛躍するようなアイデアが必要です。そのアイデアを実現させるためには、仲間となる人材が不可欠です。世界には、ユニークな人、本当に頭の回転のいい人、発想力・応用力の高い人、奇抜なアイデアを持つ人、独創的な分析力を発揮できる人、さまざまな人びとがいます。そうした新しい人材と交流しないと、自分(たち)の新しいアイデアを結実させることはできません。
ただし、より重要なことは、そのアイデアを根拠づけるエビデンスとなり得る資料やデータに出会えるかどうかですね。そうした巡り合わせのためには、研究資金の確保も重要です。これがないと、研究チームを作れませんし、出会いの場も得ることができません。
企画をたてて、それを実行するうえで、「あきらめない」意志の力と「おもしろさ」を忘れない気持ち、他の研究者への「敬意」がなにより必要です。私たちの若い時代と違って、パソコンを駆使してネットワークを活用し、ウェブデータベースやアーカイブを使える現在は、本当に便利かつ効率がいいと思います。その気になれば、海外にも自由に行けます。こうした研究環境の変化ゆえに、優秀な若手はつぎつぎに輩出されています。一方で、そうした優秀な若手研究者を横目でにらみながら、私たちシニア世代が新しい独創的な研究成果を世に問うことは、そう簡単ではなくなってきました。もうひと息、がんばりが必要だと思っています。
──研究を続ける中で、どんな時におもしろさやしんどさを感じますか。
私の場合、研究のおもしろさは、資料の探索と、フィールド調査での発見につきます。資料館で、それまでだれも気にもとめていなかった貴重資料に出会ったときなどは、心が震えます。また、フィールド調査の際には、文献で追えなかった事実に直面することも少なくないのですが、こうした作業は研究者冥利につきると感じています。
一方で、しんどさというのは、地域の複雑性に直面したときですね。どんな地域も単純ではなく、制度や機構のみならず、そこで生活する人びとの意識や価値観も多様です。ひとりの研究者として、ひとつの地域や、特定の時代と取り組むことは不可欠ですが、論文を書いたり、本を出版したりしても、自分がどれだけ解明し得たのか、愕然とすることがあります。いつまでも課題を抱えつづける達成感のなさ、それがしんどさといえるでしょう。ひとりの研究者が一生かけてやれることも限界があると、いまは痛感しています。
──特定地域を対象とした研究が、地域の特殊性や文化の固有性を強調しがちであることに対して、これまで問題意識をお持ちだったと思います。金門島研究で「地域研究は、本来的に総合学問でもありますからたんなる現状分析のための研究であってはいけないのです。…(中略)…戦後に設定された特定の地域からはみださない地域研究のあり方を突破していくか、その解決策を求める道筋を探す」のが必要だと述べられていましたが、後進の教育でこれをどのように伝えていますか。
まずは、さまざまな専門研究者と交流できる国際的なコミュニティを探すことです。大小の違いはあれ、地域の情報はじつに多様で複雑です。自分が習得してきた特定のディシプリンを越えるような人的ネットワークを作ることが必要です。
つぎに、自分が専門とする地域以外のフィールドワークや、現地観察をすることをお勧めします。私も、いまの職場で、同僚ふたりとペルーの調査に赴きました。そのとき、専門家のエスコートあるいは解説がいかに有用であるかを痛感しました。そして帰国後は、自分としてこの地域をどのように捉えることができるかも考えることになります。こうして戦前、戦後のペルー華僑の論文を完成させることができたのです。実際に目でみた現状あるいは事象が、いかなる淵源や変化をともなって現在にいたっているのか、そうしたことを明らかにできると思ったのです。地域間のつながりを捉える、歴史的に考える、比較論的に考察することが大切ではないでしょうか。
──研究者としてめざしてこられた理想の方はおられますか。
もっとも尊敬できる研究者といえば、現在東洋文庫長をされている斯波義信先生ですね。直接の師弟関係はありませんが、東洋文庫でご指導いただく機会がときどきあります。先生は、宋代を中心とした前近代中国の歴史を研究されている傑出した研究者ですが、その視野は現代、そして未来のアジア全域を広く見渡しているように思います。とくに広範囲の資料に対する好奇心、深い見識、独創的な分析方法など、日本を代表する歴史学者です。さらにいえば、斯波先生のお人柄や謙虚さも、私たち後塵の研究者として学ぶべき点が多いです。この時代に、こうした先人と出会えたことは本当に幸せです。
若い人たちへのメッセージと研究のこれから
──若者におすすめの本についてコメントをいただけますか。
特定の一冊となると、これはなかなかむずかしいですね。私の好みからいうと、吉川弘文館が刊行している事典や辞典を斜め読みすることをお勧めします。『アジア・太平洋戦争辞典』『戦後沖縄生活史事典』『日本メディア史年表』『事典 太平洋戦争と子どもたち』『対外関係史辞典』のほか、私たちが編纂した『二〇世紀満洲歴史事典』などです。事典類を拾い読みすることで、その研究分野の潮流や出典だけでなく、ときには課題さえも読み解くことができます。研究の動向を知るには、他人がまとめた研究動向の分析よりも、自分で事典類を繰るのが一番だと思っています。
──これから研究者になろうとする人にひとことお願いします。
専門テーマを大事にしながらも、マルチ・ディシプリンな研究を志向することをお勧めします。私は歴史学者ですが、これを専門とするポストに職場を得たことはありません。どんな状況でも、有用な人材であることを示すためには、広い問題関心とともに、多様なディシプリンを身に着けていることが必要だと思います。高校のカリキュラム改革を通じてもわかると思いますが、いまは情報学の素養とその応用は不可欠ではないかと考えています。環境学への理解も不可欠ですね。文理両系の方法論を応用するだけの意欲的な心構えが必要かと思います。すでに経済学や心理学、考古学、地理学などでは、そうした方向に進んでいますし、大事なことと思います。
──これからの野望をお聞かせください。
現在は、イギリス連邦占領軍による戦後日本に関する研究を進めています。日本占領が異文化のコンタクト・ゾーンだったという田中雅一先生の指摘(2011)に触発されたわけです。また、研究を継続してきた戦前・戦中だけでなく、現在につづく「戦後」の意味を知るためでもあります。この種の研究は国際的な比較研究にも有益だと考えており、今後の展開を楽しみにしています。なお、イギリス連邦占領軍による中国地方占領についての研究は、2025年5月に日本文教出版のシリーズ本「岡山文庫」の1冊として刊行される予定です。
また、戦後80年にむけて、毎日新聞社、東京大学渡邉英徳研究室とともに「毎日新聞戦中写真アーカイブ」プロジェクトを進めています。毎日新聞が所蔵する「戦中写真」を用いてデジタルアーカイブを構築するほか、『毎日新聞』東京版に連載「戦中写真を読む」を掲載していますし、来年度は横浜のニューズパークなどで「戦中写真」を活用した展覧会も開催する予定です。戦争時代を経験した世代が少なくなった後、戦災、被災の記憶や記録をどのように伝えていくか、まさに時代の課題だと考えています。
学術研究だけでなく、広く社会で活躍する能力を備える女性を育成する教育を重視したいとも思っています。戦後80年を迎えようとしている現在でさえ、女性に活躍の場が十分に開かれているかといえば、どうでしょうか。人文社会科学系だけでなく、とりわけ理工系、医学系では、今後はいま以上に女性人材の育成は不可欠な課題となっていくはずです。大学人として残された時間を、女性教育に力を尽くしたいと真摯に考えています。
──貴志先生は、ビジュアル・メディア研究を出発点に、多様な分野にわたる研究を精力的に進められてきたことにたいへん感銘を受けました。文献とフィールドを往還しながら、異なる分野の知見を統合し、新たな視点から地域を捉え直すというのは、まさに学際的な研究の醍醐味と言えますね。これを実現するために、幅広い研究仲間のネットワークを構築し、国際的な共同研究に積極的に取り組まれていることは、今後の地域研究にとって非常に重要な意味を持つと考えています。この度は貴重なお話を伺い、誠にありがとうございました。
(2024年9月20日)