時間をかけて、ジャンルを越えて:ある批評家の日記から – CSEAS Newsletter

時間をかけて、ジャンルを越えて:ある批評家の日記から

Newsletter No.82 2024-04-10

町北 朋洋(労働経済学)

日記を書くこと、読むことは一番身近な文芸体験かもしれません。私たちはそれを続けることで、日常の断片が思いもよらない物語に変化する様を味わっているのかもしれません。ここで紹介する『小さな天体─全サバティカル日記』(新潮社、2011年)の著者、加藤典洋は文芸評論家で勤務先の早稲田大学から1年間の在外研究の機会を得て2010年3月末からデンマークのコペンハーゲン、次に米国西海岸のサンタバーバラで半年ずつを過ごしました。2011年3月末に帰国後は、様変わりした日本を2ヶ月観察します。本書はその14ヶ月の記録で、カバーをめくると、表紙には著者が暮らし、訪れた場所で撮影した写真が52点掲載されています。

著者はコペンハーゲンの西、フレデリクスベア市に居を定め、そこから多くの旅をします。近所の散歩もあれば、遠くへの旅も。北欧では数多くの災難が著者に襲いかかります。それをじっと見守りつつも「ときどき、私はなんでこんなところにいるのかなあ、と窓に向かって言う」お連れ合いのAさんの温かな一言一言こそ本書の隠れた主役です。旅をしながら徹底的に考え抜く日々は渡米後も続き、批評を仕事にすることのハードさが伝わってきますが、悲壮感はありません。自らの仕事の意義に揺るぎない信念があるからでしょう。著者のような批評家は、作者本人ですら気づかない作品の価値を掴んでそれを歴史と社会に位置づけます。読者と作者だけがこの世にいれば良いわけではありません。

帰国後、著者は多数の多彩な作品を発表します。新たに挑戦した日本のポップ・ロック音楽批評はこれまでにないもの。長く批評を続けてきた世界的日本人小説家の作品に対する新視点の提示。そしてリスクと保険など新しいジャンルに挑み続けます。また自著『敗戦後論』(講談社、1997年。ちくま学芸文庫、2015年)への米国での批判に対する反論を英語で準備します。これは未完ではあるものの、2011年以降の多数の批評作のゆりかごとなったはず。これらは全く関連がないようにみえますが、一日、もう一日と日記を読み進めた後では、加藤典洋という個人がどのように生きたか、独自の歩みが様々な批評作を通して語られてきたと私は考えています。

Aさんが不在の中、サンタバーバラ到着後間もない9月28日の日記は「自分で料理をしてみると、色んな発見がある」と始まります。固い野菜の茎や芯が、加熱と冷却といった工夫と時間を経て、おいしく歯ごたえがあるものに変成した様を記すだけの短い文章ですが、私には批評の意義を的確に喩えているように思えてなりません。時間をかけ、垣根を気にせずジャンルを越えてゆけと、私は受けとめています。

(イラスト:Atelier Epocha(アトリエ エポカ))

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“Take Your Time and Explore: Lessons from the Diary of a Literary Critic”
by Tomohiro Machikita