土屋 喜生(東南アジア地域研究、近現代史)
2023年6月から1年間のアテネオ・デ・ダバオ大学(以下ADDU)出向において、私が一番力を入れることになったのが学部生の教育でした。そこでは、政治学・法学・歴史学専攻の学生たちの必須科目である「東南アジアの政治と統治」と私の案で4年生向けの選択科目として認可して頂いた「アジアからの政治理論」を受け持つこととなりました。
私自身はシンガポールで高等教育を受けた日本人の東南アジア研究者・歴史家であり、東ティモールに続く新たな調査地であるダバオで教育を行うのは初めてのことです。そのため、「ミンダナオでアジア研究を教えるためにどのような考慮や工夫が必要か」「調査地教育を行うとはどういうことか」について、この1年間日々考えてきました。以下、研究と教育、フィールドの学生たちに教えるということ、「アジアからのアジア研究」の3点から、私が考えてきたことを紹介します。
研究と教育
大学教員には「受け持つ授業が増えれば、研究に使う時間が減るのではないか」というジレンマがあります。最新の研究動向を踏まえた授業を提供しようと考えれば、授業計画を更新し、新たな本や論文を読み込み、講義ノートを作り直さなければなりません。1、2コマの授業でさえ、本気で臨めば何日も準備に費やしかねません。
運がいいことに、ADDU派遣が始まる前に東ティモール研究の先駆者であるマイケル・リーチ教授から貴重なアドバイスを頂くことができました。曰く、「教員と学生両方にとって一番有益な授業とは、教員自身の研究と組み合わせたものである」とのことでした。この授業方法にはいくつか利点があります。まず教員である私にとっては、「教育か、研究か」という選択に極度に縛られることなく、研究しつつ教育することができます。
学生にとっても利点があります。目の前に教師として立っている現役の研究者と先行研究との間の会話や緊張関係に触れることにより、先行研究の重要さを理解するだけではなく、学問というものが研究者同士の会話で成り立っているという事実に気づくことができます。そして研究者として論文を執筆し、学界で生き残っていくためには、この「会話としての学問」という考え方は必要不可欠です。
フィールドの学生たちを教えるということ
ADDUに到着した後、まず既存のカリキュラムの分析を行いました。フィリピンを主題とした授業を別にすれば、政治学・歴史学・東南アジア研究のどれを取っても基本的には米国の標準的な授業をモデルにしていることがわかってきました。最初の数週間の講義を進める中で、学生たちの知的な枠組みも「フィリピンとアメリカ」という二つの軸をベースに形成されており、アジア研究から生まれてきた理論や隣国の経験を学んだことはほとんどないことが分かってきました。
私の教育に関するアジェンダは主に三つありました。一つは、「フィリピンとアメリカ」にアジアを加えることにより、宗主国と旧植民地の二項対立を越えた三点からの分析(幾何学や質的調査方法では、triangulation、三角法と言います)を用いることができるようにすることでした。もう一つは、フィリピンという国の経験や課題を(東南)アジアという地域内の文脈で分析できるように訓練すること。そして最後に、欧米からのアジア研究だけでなくアジアからのアジア研究の作品を実際に読み込み、知をめぐる域内の研究者たちの闘争を追体験させることです。
ただ、その意義を理解してもらうには、学生自身の関心に呼応する授業を行う必要があります。論文を読むのが得意な学生もいれば、論文を読むのは苦手だが小説家のような美しい文章を書く学生、映画製作やパフォーマンスが得意な学生もいて、それぞれのアンテナが反応するところは異なっています。
そのため学術論文だけでなく、歴史小説や映画やインタビュー、ロールプレイングやディベート等、様々なジャンルの資料や課題を与え、それらを関連付けて理解するように促しました。例えば、政府によるテロ行為の被害者に着目した論文を読む。次にインドネシアの赤狩りで虐殺に参加したギャングを取り扱った映画『アクト・オブ・キリング』を観て、ディベートする。今度はインタビューの訓練をして、権力者たちによる犯罪について近所の人々に突撃取材する。個々人で集めてきたインタビューをクラスメイト同士で交換し議論する。そして今度はこれらの課題についてエッセイを書く。その間、私は学生たちからのインプットに対して、私自身の考察やコメントを送り続けます。
このように様々なメディア・活動・講師とのやり取りを組み合わせることにより、学生たちの頭の中では情報が実体験とつながっていきます。また講師である私は彼らのキャラクターや得意不得意がわかってくるのです。そして、それぞれの学生の、どのインプットがどんな風に素晴らしいか伝えてあげることも、彼ら自身が自らの才能を発見し、それを大切にするために必要です。
ミンダナオの大学生の関心から考える「アジアからのアジア研究」
政治学におけるマキャベリや社会学におけるマックス・ウェーバーの作品と同じように、東南アジア研究にも「正典」と呼べるような書籍や論文があります。私たち英語圏で訓練を受けた第三世代のアジア系の東南アジア研究者たちは、欧米の白人男性の影響力を象徴する研究者としてベネディクト・アンダーソン、クリフォード・ギアツ、ジェームズ・C・スコットの3人に(尊敬と皮肉の両方を込めて)言及したりします。
ただ、米国の東南アジア研究の「正典」から除外されてきた東南アジア域内からの研究を再発見する必要があるのではないかという議論が、近年盛り上がりを見せるアジアからのアジア研究から出てきています。このような背景もあり、私の授業でも、域内の研究者の作品に触れることを意識してきました。興味深いことに、ミンダナオの学生が強い関心を示した作品の多くが、ミナ・ロセスの東南アジアにおけるジェンダー論、サイド・フセイン・アラタスの汚職や植民地資本主義に関する研究、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの歴史小説等、東南アジア出身の著者たちの作品でした。学生たちの多くが、これらの作品に見出すことができる「異性愛主義に基づく同族支配」、汚職の社会学、現在まで続く植民地主義の影響に関する理論と、自分たちを取り巻く社会問題の関連性に気づくためのアンテナを持っているのです。
例えば、16世紀のアヴァ王国(現在のミャンマーに位置する)の宰相ミン・ヤーザと王たちの会話を収録した『マニ・ヤダナボン』を読んだある学生は「ミン・ヤーザは、史実・神話・たとえ話を用いつつ、わかりやすく最良のアドバイスを与えていて、これらは現在の社会でもリーダーたちや日常を生きる私たちにとっても役に立つものだ」といい、別の学生はこの宰相が自国の伝統だけでなくインドの知的伝統に習熟していることに驚嘆し、「ミン・ヤーザは、ミャンマー在来の知と広い世界の知を融合した東南アジアらしい思想家だ」と主張しました。
幸いなことに、短編小説の執筆、インタビュー、感想文、期末論文等の課題で意外なアジア各国の繋がりを見つけ、講師である私を驚嘆させるような学生も少なからずいます。すべての課題で私を感心させ続けたある学生はとても素晴らしい期末論文を書きました。彼女は、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」とアリエル・ヘリヤントの「(インドネシアにおける)国家によるテロリズム」を比較しつつ、国家権力が暴力を用いつつ自己正当化する現象を分析し、その上でフィリピンにおけるドゥテルテ前政権による超法規的殺人とこの運動への一般市民の支持と参与を考察しました。第二次大戦中の日本の総動員・インドネシアにおける赤狩り・フィリピンにおける超法規的殺人の三つに共通の力学を見つけ出した彼女の発想力は、私の想定をはるかに凌駕しており、フィリピンにおける「方法としてのアジア」の可能性を感じさせるものでした。
他にも例はたくさんあるのですが、これらの学生たちからのレスポンスは、「きっかけさえ与えられれば、学生たちは新たな古典を見つけ出し、自分自身の思考体系を築くことができるのだ」ということを私に再発見させてくれました。将来の東南アジア人の東南アジア研究者たちにも期待が膨らみます。
(2024年6月15日)
参考文献
竹内好『方法としてのアジア─わが戦前・戦中・戦後 1935–1976』創樹社、1978年。
陳光興『脱 帝国─方法としてのアジア』丸川哲史訳、以文社、2011年。
プラムディヤ・アナンタ・トゥール『人間の大地』押川典昭訳、上下巻、めこん、1986年。
丸山眞男『超国家主義の論理と心理 他八篇』古矢旬編、岩波文庫、2015年。
『アクト・オブ・キリング〈オリジナル全長版〉』Oppenheimer, Joshua, Anonymous, and Christine Cynn. Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012.
Alatas, Syed Hussein. The Myth of the Lazy Native: A Study of the Image of the Malays, Filipinos and Javanese from the 16th to the 20th Century and Its Function in the Ideology of Colonial Capitalism. London: F. Cass, 1977.
——————— . The Problem of Corruption. Singapore: Times Books International, 1986.
Heryanto, Ariel. State Terrorism and Political Identity in Indonesia: Fatally Belonging. Oxford: Routledge, 2006.
Roces, Mina. Gender in Southeast Asia. Cambridge: Cambridge University Press, 2022.
Sandalinka. The Maniyadanabon of Shin Sandalinka. L.E. Bagshawe trans. Ithaca: Cornell Southeast Asia Program, 1981.
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“Teaching in the Field: Practicing Asian Studies in Asia”
by Kisho Tsuchiya