京都を歩き、想像を拡げる – CSEAS Newsletter

京都を歩き、想像を拡げる

Newsletter No.82 2024-06-12

小林 知(地域研究、人類学)

京都と奈良を初めて訪れたのは、中学時代の修学旅行だ。日本の伝統文化を学ぶことが課題とされ、寺社仏閣についての参考書をもらった。そして、2つの古都が栄えた時代の歴史が教えられた。でも当時のわたしは、寺社仏閣や仏像の造形美に強く惹きつけられ、写真ばかりみていた。肝心の旅行についてはあまり覚えていない。でも、きっと楽しんだのだろう。

京都は歴史遺産が息づく街だと言われる。しかし、その街並みに暮らし、その建物をつくった人々は、どのようにして生きていたのか?近年の変化はないのか?そのような造形を作りあげる力の源となった仏教という宗教は、どのような形で人々の生を支えていたのか? 修学旅行のために与えられた学習教材は、京都と奈良の街並みや建物や仏像を、例えば「奈良時代の天平文化を代表する文化財」といった言葉でまとめ、歴史遺産というカテゴリーに封じ込めていた。そこには、以上の問いを追求する鍵となる情報はなかった。

その後、2冊の本が、それらの問いを具体的に考えてゆく眼を開いてくれた。ひとつは、安丸良夫の『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書、1979年)だ。それは、日本全国の寺社仏閣に、明治政府が建設される前、現在と大きく異なる景観が広がっていたことを教えてくれた。日本にはもともと、都でも地方でも、仏教も神道もそれ以外も区別せず神格を祀る宗教文化があった。しかし、伝統的な政治システムを廃して近代国家を建設することを目指した明治政府が、国家を支える宗教として神道を選んだことにより、特定の神だけが重用されるようになった。それにより、地域の伝統を守りたいと願う人々との間に全国各地で激烈な紛争が生じた。

網野善彦の『増補 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー、1996年)も、大切な本だ。人間にとっての自由を、中世の日本において、西洋近代が依拠する形ではない形で見出そうとする本書を通じて、日本語の無縁、ギリシャ語を語源として西洋諸語に存在するアジールという概念を知った。宗教秩序の場としての寺社がもつ、現世の様々な関係を断ち切る力。いま京都の街を歩いていて、目にする寺院や神社にその痕跡を認めることは難しいけれど、本書を読むことで、世俗とは異なる論理と力が生きていた時代の日本の宗教文化に思いをはせることができる。そして、その想像は、日本の外へも拡がる。東南アジアの社会にも、西洋とは異なる自由があったと考えられるのだろうか?

(イラスト:アトリエ エポカ)

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“Walking the Streets of Kyoto, Imagining the Religious Culture of the Past”

by Satoru Kobayashi