沈黙と危機の中の不変性:トンチャイ・ウィニッチャクン氏がタイ法制史を語る – CSEAS Newsletter

沈黙と危機の中の不変性:トンチャイ・ウィニッチャクン氏がタイ法制史を語る

Newsletter No.81 2023-12-13

速水 洋子

2023年9月20日、本研究所にタイの歴史家トンチャイ・ウィニッチャクン先生をお招きし、福岡アジア文化賞大賞受賞を祝して講演会を開催しました。当研究所客員教授として滞在されていた2015年から8年がたちました。当日は広報委員会によるインタビューに応じてくださり、また講演後には旧知の皆様と懇談されました。

講演は“Reflections from My Adventure into Thai Legal History”(タイ法制史をめぐる冒険の語り)というタイトルで、ハイブリッド形式によって行われ、会場とオンラインと合計110名の参加がありました。冒頭で、法制史への関心は「退職後の趣味」として不敬罪に関わる法への関心からアジア経済研究所在職時に学び始めたものだったと、その契機を話されました。以下は内容の概略です。

タイの諸制度の基礎は1880年代から1920年代にかけて植民地主義の影響のもとで王権に奉仕する形で築かれ、高等教育における考古学、前近代史や文学、そして法学が基礎学問として打ち立てられた。中でも法制度は王権を下支えする上で最重要な基盤であり、法学は法廷に携わる人材を育成する学問として1913年からほぼ変わることがなかった。学問としての法制度研究は、時代遅れの近代化論と王制ナショナリズムを基盤としたものがそのまま引き継がれており、1979年には法学教育に法制度の歴史に関わる授業が加えられたが、法廷に携わる法律の専門家を目指す学生にとって歴史や哲学を学ぶことは判事や弁護士などの職につながらないため、関心を示す学生はほとんどいない。こうして法学は判事による教育のもとで暗記力ばかりが試され、知的ダイナミズムの欠如したインブリーディングと緊密な身贔屓ネットワークが維持され、進展も変革もなく、しかも司法試験の問題は開設以来ほとんど変わっていない。

冒頭で過去20年間のタイにおける政治と法制度双方の危機は相乗的に増殖されてきたとも述べられ、現状を憂いた痛烈な批判が展開されました。トンチャイ先生は、近著書Moments of Silence(2020年)で1976年10月6日のタマサート大学での虐殺事件およびそこからのタイ政治や社会の展開を、自身が事件の当事者として関わった歴史家としてあらゆる記録とインタビューから綿密にたどられました。それにより沈黙と不忘却(Unforgetting)をキーワードにタイ社会がこの事件について語ることも忘れることもできずに形にできないトラウマの記憶をそれぞれに抱えたまま、政治や社会が展開してきたことを省みています。今回の講演は、そのプロセスの背景にある法制度の不変ぶりを厳しく問われたものと理解しました。話ぶりは決して立て板に水ではないのですが、かみしめるように強く言葉を発せられるなかで、今に至るタイの法制度がなぜこのように変わらないできたのかを歴史家として問われた結果を吐露されました。

講演に先立つインタビューで、歴史学の知は力であり、危険で有害なこともあるが、私たちが過去を異なる角度から見ることを助け、より良い未来への新たな可能性を開くものでもあること。そして歴史家に必要なのは、現在における批判的精神に由来する良き問いであり、既存の歴史的知識に対する懐疑心と未来に対する心をもって過去を学び想像することであると語られました。歴史家に限らず研究者全員に向けられた言葉だとして心に残っています。

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“Immutability amid Silence and Crises:
Thai Historian Thongchai Winichakul Reflects on Thailand’s Legal System”
by Yoko Hayami