〈ダバオ滞在記1〉リヴァイアサンのいない場所:ある死を通して認識のギャップを問う – CSEAS Newsletter

〈ダバオ滞在記1〉リヴァイアサンのいない場所:ある死を通して認識のギャップを問う

Newsletter No.81 2023-12-13

土屋 喜生(東南アジア地域研究、近現代史)

アテネオ・デ・ダバオ大学が休暇に入った10月30日、カガヤン・デ・オロのプエルトに住む義理の家族から「甥が刺殺された」というニュースが届きました。急遽、私はダバオから8時間バスに乗り、彼の葬式に出席することとなりました。甥に同行していた目撃者によれば、事件当日、彼ら二人は麻薬取引に関わるトラブルを処理するために事件現場を訪れ、甥は売人たちにナイフで刺され、病院に搬送される道すがら「仇討ちはやめて欲しい」と言って亡くなったそうです。

その後、日本の知人たちと会話をする中で、殺人事件に対する反応に温度差があることがわかってきました。ある方からは「どうしてこの恐ろしい事件、何万人に一人という不幸を日常の中の一コマとして受け入れられるのか」と言われました。というのも、遺族となったカガヤン・デ・オロの親戚も私自身も、家族を失うこととなった殺人事件を「ショックだが受け入れている」のです。私たちはマスコミからの取材を受けることなく、自然死の際のように通常の葬式を行い、合間にはNBAの試合を観たり、ソーシャルメディアの投稿に「いいね」を押したりしています。この事件に対する認識のギャップを深く探求することで、当事者のコミュニティを理解することができるかもしれません。

甥の棺桶(カガヤン・デ・オロにて。撮影:筆者)

ギャップの一つ目の要因は、国家による管理が存在しない空間で生きた経験の有無です。私がフィールドワークを行ってきた東ティモールやミンダナオ島では、国家に頼らない生き様に誇りを感じている人々がいます。そして、国家による暴力の独占が成立していない環境での主たる治安維持の方法は甥の遺言にあった仇討ちです。彼らの中に「仇討ちをやめて欲しい」と考える人々が出てきています。

そして二つ目の要因は、麻薬が蔓延した社会での生活経験の有無です。1990年代以来フィリピンは麻薬使用頻度が東南アジア・東アジアで最も高い国のひとつです。[1] カガヤン・デ・オロでは麻薬は非常にありふれたものであり、麻薬に関わる殺人、レイプ、そして窃盗事件は何度も起きています。今回の事件は「何万人に一人の不幸」ではなく、ありふれた事件であり、私自身、知人を麻薬関連の事件で失うのは初めてではありません。また貧困層の中毒者にとって、最も安定的に麻薬を受け取る方法は自分自身が売人となることであり、それ以外ではストリートチルドレン化して強盗や窃盗、売春に関わるという事例もありました。「麻薬がやってきて、家庭が崩壊した」「治安が悪化した」というのは、ミンダナオの年配の方々からよく聞く経験談でもあります。

ある日のインタビュー(ダバオにて。写真提供:筆者)

「フィリピンで最も平和な町」になったと自負するダバオ市でさえ、麻薬問題は大きな問題となっています。アテネオ・デ・ダバオ大学が行った2023年の社会調査によると、ダバオ市民の約73%が「自分のコミュニティにおいて麻薬を使用している人物を知っている」と回答しています。また、「平和と秩序をどのように定義しますか」という質問に対して、「暴力事件が無いこと(57.6%)」「ギャングや不良がいないこと(47.5%)」「テロが起きないこと(34.6%)」などが挙げられた中、「違法ドラッグとその取引が無いこと」を最も多くの回答者(67.9%)が選び、麻薬を最も大きな治安リスクとして挙げています。[2] これは麻薬使用頻度の低い社会に住む人々には理解しにくい背景なのではないでしょうか。

麻薬の蔓延や人々の国家観の変化を考慮せず、ドゥテルテ前大統領が始動した「麻薬との戦争」を「人権侵害」という面だけで伝えてきた従来からの報道や研究者の動きがあります。これらに対して私はやや違和感を覚えています。人権は、政府による自国民への迫害を可視化する手段として1970年代後半に国際的な運動における中核的な概念となりました。[3] しかし、大多数の一般大衆と国家権力が一致して超法規的暴力行為を正当化している現状では、人権は多数派の動態を説明する概念としては非力です。

料理の商品名に政治家の名前を入れる食堂(ダバオにて。撮影:筆者)

フィリピンの大衆感情やその変化を理解しようとせず、最初から「麻薬との戦争」を人権侵害の悪として想定してしまうと、地域研究の開拓者たちが指摘してきた古典的な問題に陥ってしまいます。それは、ハーバート・フェイスのThe Decline of Constitutional Democracy in Indonesia(1962年)に対する論争です。そこでハリー・ベンダは「本質的に勘違いされたとんちんかんな問いに対して、高度に洗練された説得力のある回答を提供している」とフェイスを批判しています。[4] ベンダは、外部の視点から「なぜ議会制民主主義は衰退したのか。インドネシアの何が悪いか」という問いから研究を始め、最初から登場人物を善人と悪者に分けてしまえば、インドネシア人の歴史や政治思想を理解することからはむしろ遠ざかってしまうと指摘しているのです。

同様に、ロドリーゴ・ドゥテルテ前大統領による強権的治安維持や麻薬対策への多数派の支持をフィリピンの文脈において理解しようとするならば、普通の人々の体験談に寄り添い、「何が重要な問題か」を問い直した上で、時には彼らが触れたがらない過去の経験に迫る帰納法的作業が必要です。(後編に続く)

[1] United Nations Office of Drugs and Crime, “Prevalence of Drug Use in the General Population – National Data” https://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/wdr2022_annex.html(2007年から2022年のデータを参照)。

[2] Christine S. Diaz, Cleofe A. Arib, and Mary Donna J. Cuenca. “City Wide Social Survey – Series 14.” Ateneo de Davao University, 12 July 2023.

[3] Samuel Moyn. The Last Utopia: Human-Rights in History. Cambridge, Mass: Belknap Press of Harvard University Press, 2010.

[4] p.450, Harry Benda. “Review: Democracy in Indonesia.” Journal of Asian Studies 23, no. 3 (1964), 449–456. doi: https://doi.org/10.2307/2050765

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“A Death in Mindanao: A Place Without Leviathan”
by Kisho Tsuchiya